いつの人?
・?~686年10月1日。大海人皇子(おおあまのおうじ)。
・父は第34代舒明天皇、母は第35代皇極天皇(←この人は第37代斉明天皇でもある)。
・兄は第38代天智天皇(中大兄皇子)、甥っ子(兄の息子)が第39代弘文天皇(生粋の天皇一家…)。
・壬申の乱(甥っ子との戦い)に勝利して即位した第40代天皇(在位:673年3月20日~686年10月1日)。
・672年、都を飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に移す(奥さんは後の第41代持統天皇で、4回目・3人目の女帝。この人は、694年、都を飛鳥京から藤原京に移している)。
・別に珍しいことではないが、天武天皇の出生年は『日本書紀』に記載がない。そのため、天智天皇と天武天皇の間柄は「兄と弟」ではなく「弟と兄」ではないかと言われることもあるようです。
舒明天皇と皇極/斉明天皇の子。いわゆる中大兄皇子。白村江の戦いに敗れて防御に全振りする
39代 弘文天皇/671年~672年
天智天皇の子。乱により自害
40代 天武天皇/673年~686年
天智天皇の弟。天智天皇の子である弘文天皇と彼との間の戦いを壬申の乱という
41代 持統天皇/690年~697年
4回目・3人目の女帝。天智天皇の娘で、天武天皇の妃。後に孫を即位させ、初の上皇となる
42代 文武天皇/697年~707年
天武天皇と持統天皇の子の子(孫)。彼が藤原不比等の娘を妻に迎えたことが藤原氏の台頭につながる
~即位までの流れ~
①兄である中大兄皇子&中臣鎌足が起こした乙巳の変(いっしのへん)(蘇我入鹿の暗殺)には多分ノータッチ。
②兄(天智天皇)がなかなか即位せずに称制で統治していた間、色々と兄を支えていた。
③即位した天智天皇は弟である彼に自分の跡を継がせようと考えていたが、自分の子供(大友皇子/後の弘文天皇)が生まれたことで考えを改め、以後弟を疎外するようになる。
④671年、天智天皇が病床の枕元に弟を呼んで事後を託そうとするが、他者からの警告もあり、「ここで頷いたら謀反の罪を着せられるかもしれない」と思った大海人皇子はスパッと断り(皇后である倭姫王を即位させて息子皇子を執政すれば?と薦めて濁し)、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下る。
⑤天智天皇、弟が辞退したので、代わりに息子である大友皇子を皇太子とする。そんでその年の12月に崩御する(46歳)。
⑥とはいえ、人格者である大海人皇子を推す声が後を絶たない。朝廷は朝廷で「彼が戻ってくるかもしれない」と大和の要所要所で警戒態勢を敷く。
⑦672年、どうやら大友皇子(25歳)が戦争の準備をしていることを知った大海人皇子が、攻撃されたらひとたまりもないとこれに対立、壬申の乱がおこる→多くの者が味方し(名を高めたい大伴氏とか、それに呼応した豪族とか)、大海人皇子が勝利。大友皇子は山中で自害する。
⑧673年、飛鳥浄御原宮にて即位する。
それから…
・679年、天皇夫妻は天武天皇(自分)の子4人と天智天皇(兄)の子2人とともに吉野宮に赴き、「父母を同じくする子のように遇し、子は共に協力すること」という、いわゆる「吉野の盟約」をさせる。
・とはいえこの6人は平等ではなく、①草壁皇子(皇后の子にして皇太子)②大津皇子(人気ナンバーワンの異母弟)③高市皇子(最年長)の順で誓いを立て、この序列は天武天皇の治世の間維持されたという。皇太子には草壁皇子が選ばれた。
・686年、天武天皇が崩御。
・①の草壁皇子母子の策略によって(?)②の大津皇子が自害させられる。しかしその草壁皇子も病により28歳で亡くなる。
・草壁皇子の母が、草壁皇子の子(軽皇子)が皇位につくまでの中継ぎの天皇、持統天皇となる。
・694年、藤原京に都を移す。藤原京は漢の洛陽や唐の長安を参考に作られた計画的な都市である。
・697年、満を持して軽皇子が文武天皇となる。その頃、大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原鎌足)の子である藤原不比等は、自分の娘を文武天皇の妻とするよう画策していた…(To be continued…)

何をした人?
・律令の編成に着手し「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を編纂
・新たな身分制度「八色の姓(やくさのかばね)」で豪族たちを抑え、天皇中心の身分制度を強化しました
色々決めた(皇親政治)
・皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治(天皇中心の政治)をとった
・だが、自らは他の皇族に政治に口出しをさせず(一人も大臣を置かなかった)、割と専制君主的だったという
・「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる
働き方改革(官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める)
・皇族を一番偉くするため、上位の者の昇進を許さなかったが、下位の者に関しては積極的に昇進させた
・冠位四十八階を制定。官人の才能を見て適切な職に就かせる→勤務成績を審査して昇進させる
・婦女であっても望む者には宮仕えを許した
・匍匐礼を廃し、立礼に
文化と宗教
・唐が繁栄しているのは律令が定められているからとしてこれを踏襲、制度改革を進める
・とはいえ、唐に似せつつも日本古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こし、割と独自の和唐折衷文化を築き上げた
・道教に関心を寄せる(道教→中国の三大宗教の一つ。「儒教・仏教・道教」の最後のやつ。老子の思想を根本としているが、後に様々な経典、儀礼、伝説などがいろいろ混ざった)
・仏教を保護する。そもそも即位前に出家してたし、680年には皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自分が病に罹った際にも仏教に頼って快癒を願ったりしている
・しかし、基本的には伝統(神道)を大切にする護国者であり、仏教に対しては「僧尼は寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念してくれ」というスタンスだったようだ(仏教を国家に従属させようとした)
・最終的には「国家神道」と「国家仏教」を同時に推進
・神社の大祭を国の行事として、天皇の血筋の者が伊勢神宮(天照大神をまつる神社)などに行って奉仕することを定めた(外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるため神道を振興させる)

そもそも、皇家が祀っていた神と合体させて「天照大神」という神を造り出したのは天武天皇であるという説もあるんだ
古事記と日本書記の編纂
天皇の祖先がすべての氏族の上に立つことを証明しよう→日本書記と古事記の編集へ(天武天皇が亡くなった後に完成する)
712年。和文。天皇家の私的蔵書。「帝紀」「旧辞」+伝承
日本書記
720年。漢文。公的な正史。「帝紀」「旧辞」+海外資料・金石文

「帝紀」は皇室系図
「旧辞」は神話や伝承だよ
天武天皇は土着文化の掘り起こしと整頓に熱心だったようです。
ゆえに、彼が壬申の乱に敗れていたらこのような書は作られず、日本はただ中国文化に浸食されるだけの国になっていたのでは? とも言われています。
肉食の禁止?
675年、税収の安定的な確保の為に稲作を促進する観点から、(稲作期間に相当する4月から9月に限って)牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止した。
このような「稲作の促進の為の動物の保護と肉食の制限・禁止」の法令は後の時代にも繰り返され、昔の日本人はそんなモリモリ肉を食ってなかったそうな。
華やかな文化の火付け役
・都の人口は約20万人、そのうち役人が1万人くらいで、貴族は300人ほど
・壬申の乱を教訓として武備を整えさせたが、衛士(えじ)や労役(ろうえき)などの制度は農民を苦しめたとされている
・この奈良時代は80年くらい続き、708年には最初の貨幣が作られた(和同開珎)
外交
・日本が白村江の戦いで敗れた後、唐と新羅は互いに朝鮮半島の支配をめぐって争い、それぞれが日本との通交を求めてきたため、外交的な環境は悪くなかった
・この際、新羅の使者が低姿勢だったため、ある意味「半島の文化の搾取」ができたとか(これにより、天智天皇は親百済だったが、天武天皇は親新羅となった)(ただし新羅系の渡来人を優遇したわけでも百済系の人を冷遇したわけでもない)(朝鮮半島から帰化した人には課税を免除したりもした。…そんなに昔から帰化人がいたのだな…)。
・一方、唐にはあえて使者を遣わさず、「なにか?」という顔を保つ
・結局、天武天皇が征服や干渉のための軍を起こさなかったため、国内外に戦争が起きなかった

へいわなじだい!

どんな人?
少子化対策大臣
・少なくとも、皇后が1人(天智天皇の皇女で、後の持統天皇)、妃が3人(天智天皇の皇女とか藤原鎌足の血縁者とか)、夫人が3人(藤原鎌足の血縁者とか蘇我氏の女性とか)、嬪が3人はいた。皇子と皇女もいっぱいいた。
スピリチュアル人
・単に神仏への信仰が厚いだけでなく、宗教や超自然的力に関心が強い人だったようだ
・壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったりした(神道式)
・結果、「天皇の権謀?」「偶然の関与?」「いいえ、カリスマ性予言者です」みたいな有様に
・即位後の政治にも宗教・儀式への関心がうかがえ、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強かったそうな
