天武天皇(大海人皇子/おおあまのおうじ)は631(?)~686年、わかりやすく一言で言えば「中大兄皇子の弟」。
(「日本書紀」に出生年の記載がないため、天智天皇と天武天皇は「兄と弟」ではなく「弟と兄」ではないかと言われることも)
ですが、すごいのは兄ばかりではなく、
- 父は第34代舒明天皇
- 母は第35代皇極天皇(この人は第37代斉明天皇にもなる)
- 兄は第38代天智天皇(中大兄皇子)
- 甥は第39代弘文天皇(中大兄皇子の息子)
- 妻は第41代持統天皇(中大兄皇子の娘)
という、どこに出しても恥ずかしくない生粋の皇族でした。
甥っ子との戦いである「壬申の乱」に勝利し、42歳頃、第40代天武天皇として即位します(在位:673年3月20日~686年10月1日)。
「武力で天皇の座を勝ち取った」から「天武」天皇なのだそうですよ。
| 38代・天智天皇/668年~671年 舒明天皇と皇極/斉明天皇の子。いわゆる中大兄皇子。白村江の戦いに敗れて防御に全振りする |
| 39代・弘文天皇/671年~672年 天智天皇の子。乱により自害 |
| 40代・天武天皇/673年~686年 天智天皇の弟。天智天皇の子である弘文天皇と彼との間の戦いを壬申の乱という |
| 41代・持統天皇/690年~697年 3人目の女帝。天智天皇の娘で、天武天皇の妃。後に孫を即位させ、初の上皇となる |
| 42代・文武天皇/697年~707年 天武天皇と持統天皇の子の子(孫)。彼が藤原不比等の娘を妻に迎えたことが藤原氏の台頭につながる |
~即位までの流れ~
①兄である中大兄皇子が中臣鎌足と共に起こした乙巳の変(いっしのへん/蘇我入鹿の暗殺)にはおそらくノータッチであろうと思われる
②兄(天智天皇)がなかなか即位せずに皇太子として活動していた期間も、色々と兄を支えていた
③晴れて即位した天智天皇は弟である彼に自分の跡を継がせようと考えていたが、自分の子供(大友皇子/後の弘文天皇)が生まれたことで考えを改め、以後息子を優遇し弟を疎外するように
④671年、天智天皇が病床の枕元に弟を呼んで事後を託そうとするが、他者からの警告もあり、「ここで頷いたら謀反の罪を着せられて蘇我入鹿みたいに殺されるかもしれない」と思った大海人皇子はスパッと断り、自らは出家してその日のうちに剃髪、吉野(奈良県)に下る
⑤弟が辞退したので、代わりに息子である大友皇子を皇太子とした天智天皇が、その年の12月に崩御する(46歳)
⑥とはいえ、人格者である大海人皇子を推す声が後を絶たず、朝廷は「野に放った虎が戻ってくるかもしれない」と大和の要所要所で警戒態勢を敷く事態に
⑦672年、どうやら大友皇子(25歳)が戦争の準備をしていることを知った大海人皇子が、攻撃されたらひとたまりもないとこれに対立、壬申の乱がおこる
⑧多くの味方を得て(名を高めたい大伴氏とか、それに呼応した豪族とか)大海人皇子が勝利する。大友皇子は山中で自害
⑨673年、飛鳥浄御原宮にて即位する

流れだけ追うとちょっとかわいそうに見えるけど、兄が自分ではなく息子を跡取りにすると言い出した時、宴会の席で大暴れして兄に殺されかけ、中臣鎌足に間を取り持ってもらうというシーンもあったとか。意外に野心家?だったみたいだ
ちなみに中臣氏ですが、壬申の乱の時に大友皇子側に立ったおかげで、その多くが没落していくことになります。
当時13歳だった藤原不比等(中臣鎌足の次男)は幼さゆえに見逃され、成長した後は天武天皇の元で大いに功績を残し…
やがて文武天皇(天武天皇の孫)に「藤原姓を受け継ぐのは不比等だけにしなさい。他の者は元の姓に戻すように(中臣氏は神事を司る家系だったので)」とまで言われたのでした。
即位後、天武天皇は、自分の子4人と天智天皇(兄)の子2人とともに吉野宮に赴き、「父母を同じくする子のように遇し、子は共に協力すること」という、いわゆる「吉野の盟約」を立てさせます。
これ以上身内で争いたくなかったのでしょうね。
とはいえこの6人の子は平等ではなく、
①草壁皇子(自分の子。皇后の子にして皇太子。病弱)
②大津皇子(自分の子。人気ナンバーワンの異母弟)
③高市皇子(自分の子。最年長)
の順で誓いを立て、この序列は天武天皇の治世の間中、維持されました。
身内で争いたくはないけど、兄の子に皇位を渡すつもりもなかったのでしょう。

さて、では、何をした人?
新たな身分制度で豪族たちを抑えつつ、天皇中心の身分制度を強化した天皇!
①色々決めた(皇親政治)
- 皇族を要職につけ、他氏族を下位におく「皇親政治(天皇中心の政治)」を行う(兄が目指した天皇中心の政治を体現)
- だが、自らは他の皇族に政治に口出しをさせず(一人も大臣を置かなかった)、割と専制君主的だった
- 「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる
②新しい身分秩序、八色の姓(やくさのかばね)を制定
| 従来の「姓(かばね)」 | 新しい「八色の姓(やくさのかばね)」 |
| ・臣(おみ) | 1・真人(まひと) |
| ・連(むらじ) | 2・朝臣(あそみ) |
| ・君(きみ) | 3・宿禰(すくね) |
| ・直(あたい) | 4・忌寸(いみき) |
| ・造(みやつこ) | 5・同師(みちのし) |
| ・首(おびと) | 6・臣(おみ) |
| 7・連(むらじ) | |
| 8・稲置(いなぎ) |

天皇家を最上位(真人)とし、皇親、貴族、豪族の上下関係をハッキリさせた形だね
③働き方改革(官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める)
- 皇族を一番偉くするため、上位の者の昇進を許さなかったが、下位の者は積極的に昇進させた
- 冠位四十八階を制定。官人の才能を見て適切な職に就かせ、勤務成績を審査して昇進させた
- 婦女であっても望む者には宮仕えを許した
- 匍匐礼を廃し、立礼とした
④文化と宗教
- 唐が繁栄しているのは律令が定められているからでは?と考え、これを踏襲、制度改革を進めた
- とはいえ、唐に似せるだけではなく、日本古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こし、割と独自の和唐折衷文化を築き上げた
- 道教に関心を寄せ、同時に仏教も保護。
そもそも即位前に出家してたし、680年には皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自分が病に罹った際にも仏教に頼って快癒を願ったりしていた - しかし、基本的には伝統(神道)を大切にする護国者であり、仏教に対しては「僧尼は寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念してくれ」というスタンスだった模様(仏教を国家に従属させようとした)
- 最終的には「国家神道」と「国家仏教」を同時に推進
- 神社の大祭を国の行事として、天皇の血筋の者が伊勢神宮(天照大神をまつる神社)などに行って奉仕することを定めた(外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるため神道を振興させた)

そもそも、今まで皇家が祀っていた神と合体させて「天照大神」という神を造り出したのは天武天皇であるという説もあるんだ
⑤古事記と日本書記の編纂
- 天皇の祖先がすべての氏族の上に立つことを証明しよう→日本書記と古事記の編集へ(天武天皇が亡くなった後に完成する)
- この時作った「古事記」によって、「天皇家は太陽神・天照大神の子孫である」とした
| 古事記 | 日本書記 |
| 712年 | 720年 |
| 和文 | 漢文 |
| 天皇家の私的蔵書 | 公的な正史 |
| 「帝紀」「旧辞」+伝承 | 「帝紀」「旧辞」+海外資料・金石文 |
| 記憶力に優れた稗田阿礼(ひえだのあれ)を起用 | 天智天皇の第2皇子である川島皇子たちを起用 |

「帝紀」は皇室系図。「旧辞」は神話や伝承の物語だよ
天武天皇は土着文化の掘り起こしと整頓に非常に熱心でした。
ゆえに、彼が壬申の乱に敗れていたらこのような書は作られず、日本はただ中国文化に浸食されるだけの国になっていただろうと言われています。
⑥肉食の禁止?
- 675年、税収の安定的な確保の為に稲作を促進する観点から(稲作期間に相当する4月から9月に限って)牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止した
- このような「稲作の促進の為の動物の保護と肉食の制限・禁止」の法令は後の時代にも繰り返され、昔の日本人はそんなモリモリ肉を食ってなかったそうな
⑦外交
- 日本が白村江の戦いで敗れた後、今度はこっちに攻めてくる…かと思いきや唐と新羅が互いに朝鮮半島の支配をめぐって争い、それぞれが日本との通交を求めてきたため、外交的な環境は悪くなかった
- この際、新羅の使者が低姿勢だったため、ある意味「半島の文化の搾取」ができたと言われている
(これにより、天智天皇は親百済だったが、天武天皇は親新羅となったとか)
(ただし新羅系の渡来人を優遇したわけでも百済系の人を冷遇したわけでもない)
(朝鮮半島から帰化した人には課税を免除したりもした。…そんなに昔から帰化人がいたのだな…) - 一方、唐にはあえて使者を遣わさず、「なにか?」という顔を保った
- 結局、天武天皇が征服や干渉のための軍を起こさなかったため、国内外に戦争が起きなかった

へいわなじだい!

どんな人?
①少子化対策大臣
少なくとも、
- 皇后が1人(天智天皇の皇女で、後の持統天皇)
- 妃が3人(天智天皇の皇女とか藤原鎌足の血縁者とか)
- 夫人が3人(藤原鎌足の血縁者とか蘇我氏の女性とか)
- 嬪が3人
いた。皇子と皇女もいっぱいいた
②スピリチュアル人
- 単に神仏への信仰が厚いだけでなく、宗教や超自然的力に関心が強い人だった
- 壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったりしていた(神道式)
- 結果、「天皇の権謀?」「偶然の関与?」「いいえ、カリスマ予言者です」みたいな有様に
- 気象観測などを行う陰陽寮を設立し、天文を観測して吉凶を占う「占星台」を設置

占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強かったみたいだ
そして予後…
自分の子4人と天智天皇(兄)の子2人の計6人に「吉野の盟約」を立てさせた天武天皇ですが、
- 草壁皇子(自分の子。皇后の子にして皇太子。病弱)
- 大津皇子(自分の子。人気ナンバーワンの異母弟)
- 高市皇子(自分の子。最年長)
①皇太子には草壁皇子が選ばれた
②686年、天武天皇が崩御
③草壁皇子母子の策略によって(?)人気ナンバーワンの大津皇子が自害させられる
④しかしその後草壁皇子も病により28歳で亡くなる
⑤草壁皇子の母(天武天皇の妻)が、草壁皇子の子(軽皇子/当時7歳)が皇位につくまでの中継ぎの天皇、第41代持統天皇となる(当時45歳)
⑥694年、都を藤原京に移す
⑦697年、満を持して軽皇子が第42代文武天皇となる
と続きます。
そして、大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原鎌足)の子である藤原不比等が、自分の娘を文武天皇の妻とするよう画策するのでした…(To be continued…)

ちなみに、日本史上に「軽皇子」は複数いるよ。
①皇極天皇の同母弟であり、645年に第36代孝徳天皇となった軽皇子
②草壁皇子の子であり、697年に第42代文武天皇となった軽皇子
が有名だね。
おしまい
