中臣鎌足は、614~669年、飛鳥時代の貴族・政治家です。
初期は中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていましたが、その後、鎌足(かまたり)に改名しました。
いやなんで鎌子? → 鎌足が生まれた時、どこからか鎌をくわえた白い狐が現れて生まれた子の足元にそれを置いたため、その子を「鎌子」と名づけたとか。
この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られているそうです。
- 「乙巳の変」および「大化の改新」の中心人物であり
- 臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った、日本史における最大氏族「藤原氏」の始祖!
とにかく、この人がいなければ今の日本はなかっただろうという、大偉人のひとりです。
鎌足に歴史あり…
彼の生家である中臣氏は、朝廷の神事を担当する豪族でした。
そのため、大陸から仏教(外来の神)を受け入れることに大反対していたのですが、物部氏共々、仏教推進派である蘇我氏に敗北してしまいました(587年、衣摺(きずり)の戦い/丁未(ていび)の乱)。
そんな過去があるため、一族の仇である蘇我氏に好感があるわけもなく。
とはいえ、神を祭る職に就いている以上、外来といえども神について学ばないわけにもいかない(真面目)。
そんなこんなで仏教や儒教を公平に学び、結果、その時代に必要な柔軟で先進的な思考力を培うことができていたのでした。

早くから中国の史書に関心を持ち、中国に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才と称されたほどだったよ
優秀な鎌足は周囲から中臣氏の家業である祭官に就くことを求められましたが、これを固辞。
家業を継ぐより、「打倒・蘇我氏体制!」「天皇を中心とした中央集権的官僚国家の樹立!」という意志の方が固かったのでした。
乙巳の変(いっしのへん)
645年、31歳の時に、中大兄皇子、石川麻呂らと協力し、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺。
さらに入鹿の父である蘇我蝦夷を自殺に追いやります。
この功績から、内臣(うちつおみ。この場合は寵臣・参謀の意味が強く、特別顧問といった感じ)に任じられ、以後、軍事指揮権を握るように。
また、唐や新羅からの外交使節の対応にあたる外交責任者であったとみられています。
大化の改新
647年、新冠位制度にて大錦冠(だいきんかん)を授与されます。
649年、保守派の倉梯麻呂、石川麻呂が薨去、失脚したあとに勢力を伸ばしはじめ、
654年頃、大紫冠(だいしかん)に昇格。
時は流れて669年、天智天皇から大識冠を授けられ+内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去しました。
享年56。
鎌足に歴史あり…2
・後年、狩りの最中に落馬して背中を強打した際、お見舞いに来てくれた天智天皇に、
「生きては軍国に務無し(私は軍略で貢献できなかった)」
としょぼくれたくらい、白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたそうです。どんまい。
・天智天皇が、天皇の妻となる資格を持つ女性(采女)を特別に自分だけに与えてくれたことに対する名誉+自分の禁忌の恋が成就したことへの喜びとして、
「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり(私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)」
という和歌を詠んで喜びを爆発させました。
・長男は定恵(644~665年)、次男は不比等(659~720年)。
ただ次男の藤原不比等は天智天皇の落胤という説がやけに見られます。
・かつて紙幣の肖像となったこともあるそうな。
おしまい。

