本邦の神話は、図らずも「アジア各地から入ってきた様々な文化を絶妙な塩梅で融合させたもの」という創意工夫の物語となっています。
地続きの大陸国では「俺が来た!今日からここは俺たちの土地な!」となるのが常でしたが、島国である日本では、
- 他民族との邂逅
- 文化や宗教の押し付け
- 派手な侵略戦争
がなかったため、「へえ、外の文化?」「面白いね」「変わってるね」とすべての文化を無理なく柔軟に受け容れることができたのでした。
- 日本固有の縄文文化
- 航海民により持ち込まれた東南アジアの文化
- 朝鮮半島を経て入ってきた騎馬民族文化
- 黄河流域の文化(儒教や陰陽、五行説をふまえた中国文化)
- 長江下流の文化(剣や鏡を用いる江南の祭祀文化)
「航海民の神」や「騎馬民族の神」や「仏教の神」が「八百万の神」とひとつになった国。
それがジャパンでした。
①参考:世界
たとえば、ギルバート諸島には、「天の神と地の神の夫婦が、太陽、月、海の神を生んだ」という神話があるそうです。
そういった物語が「天照大神、月読命、須佐之男命」の元になったのかもしれません。
つまり、日本神話や日本文化は縄文人独自の考えというより、航海民の思想の伝播によって花開いていった可能性があるわけですね。

「着想」を得て「発想」したということだね
<世界の似たような神話>
- 死の世界から伴侶を連れ出そうとする男神→ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケ→日本のイザナギとイザナミ
- 女神の不在が世界に危機をもたらす→ギリシャ神話の豊穣神デメテル→日本の天照大神(天岩戸隠れ)
- 英雄が姫を救出する「ペルセウス・アンドロメダ型神話」→スサノオとクシナダヒメ
- 神から贈られた石を拒んでうまいバナナを食べたことから短命になったとされる「バナナ型神話」→東南アジアに広く分布するが、日本にはバナナがなかったため、花(コノハナサクヤ)に置き換えられたという説がある
②天から神が降りてくる
東南アジアの航海民は、「神は海に住むもの」と考え、海の果てまで行けばそこから空、つまり天に昇っていけるという地理観を持っていました。
そうした考えが渡ってきた影響か、日本でも弥生時代中期頃は「祖先の霊魂(神)は海の彼方の常世の国に住む」と考えていたそうです。
一方で、海ではなく陸、大陸の草原で生活する遊牧民たちは、天と地上を全く違う世界とみており、「果てしなく広がる大地の果てまで行っても天には昇れない」と考えていました。
そのため、騎馬民族は「人間は天に行けない…だが天の神が地上に降りて来ることがある」系の神話をたくさん作ったのだそうです。
ゆえに、日本の「須佐之男命の高天原追放」や「瓊瓊杵尊の降臨神話」は、騎馬民族の考えに着想を得たのではないかと考えられています。

③太陽神がいちばん偉い
天照大神の祭祀が始まったのは、第26代継体天皇(507~531年)の時代からでした。
それまでは山の神や水の神、花の神や草木の神に祈っていたのに、
常に天にいる神の方が、海の彼方からくる神より偉そうじゃね
→天でいちばんすごいっていったら太陽かな?
→じゃあ太陽の神を皇室の祖先神にしよう
という流れで、「高天原」の世界観が構想されました。
言うなれば、皇室が格の高い天津神を自らの祖先神として、それを大義名分に国内の統一に乗り出したわけです。
この時、中央豪族の多くも「じゃあ俺たちは天照大神に仕えた神の末裔な!」として、自分たちの影響力を強化しました。
天津神は、前々から信仰されていた土着の国津神と違い、後々になって創造されて信仰された、「必要に応じて生み出された神」だったわけですね。

本当にそうだとしたら興味深いね
実際、第26代継体天皇を王位に迎えた大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかい)の二人は、
- 「大伴氏の祖先は、初代神武天皇の東征で先鋒を務めた道臣命(ミチノオミノミコト)ということにしよう!」
- 「じゃあ物部氏の祖先は、天孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)より先に大和に降り立ち現地を統治していたとされる邇芸速日命(ニギハヤノミコト)な!」
としました。
「継体天皇を王位に迎えた自分たちは、もちろん神武東征伝説時からずっと重要な役割を担ってましたけど?」という主張を、後世に残る物語の中に組み込んだわけですね。
この流れはその後も続いていて、時の権力者たちは、
「天照大神の孫・瓊瓊杵尊と共に地上に降りてきた五伴緒神(いつとものおのかみ)こそが私たちの祖神!」
とめっちゃ強引に定めまくりました。
- 中臣家の祖神→天児屋命(アメノコヤネノミコト)→宮廷の祭祀の統括
- 忌部氏の祖神→布刀玉命(フトダマノミコト)→中臣氏の補佐
- 猿女氏の祖神→天宇受売命(アメノウズメノミコト)→祭祀の場の芸能
- 鏡作氏の祖神→伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)→祭祀用の銅鏡づくり
- 玉作氏の祖神→玉祖命(タマノオヤノミコト)→祭祀用の玉類づくり
中臣氏の氏神である建御雷神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)が国譲り(国津神が治めていた地に天津神が乗り込んでくる)に出てきたのもそうで、「土着の神である出雲の国津神を、天津神の武神の力で従えたことにしよう!」と考えたわけです。
こうした手法で、彼らは、第40代天武天皇(673~686年。古事記の編纂を命じた天皇)の時代までに、
- ある程度の中央集権(天皇支配)
- 日本神話の整備(自分たちの正統性の流布)
を達成しました。
天上の高天原神話は、出雲系の国津神を天の天津神の下位に持ってくるために作られ、天孫降臨の神話によって「日本の正統な指導者・王家は天皇家のみ」とした、都合のいい物語だったわけですね。

実際にそれで国がまとまったからいいんだけどね
④天孫降臨の場所どこにする? そうだ、九州にしよう!
天照大神の孫である瓊瓊杵尊は、天にある高天原から九州の高千穂に降臨したと言われています。
話は変わりますが、継体天皇の時代、北九州の豪族であった筑紫磐井(つくしのいわい/かつての邪馬台国の領域に勢力を持ち、独自に朝鮮半島の国々と交渉を行っていた大豪族)が反乱を起こし、一年六ヶ月ほど朝廷相手にドンパチを続けた事件がありました(527~528年・磐井の乱)。
大和朝廷は大伴金村と物部麁鹿火を九州に送ってこれを鎮め、それをきっかけに九州の平定に乗り出します。
その際、磐井は九州南部の日向(宮崎県)を勢力圏に含めていなかったため、大和朝廷は「日向もうちの土地な!」と支配権を主張しました。
そうすることで、「瓊瓊杵尊は高千穂に降り立った」「神武天皇は日向から出発した」という話に正統性と信憑性を持たせたわけです(因果が逆ということ)。

知識も文化も鉄も左の大陸から来るから、九州が重要視されるのは当然だね。
ちなみに邪馬台国は、「九州にあり、大和朝廷に滅ぼされた説」「邪馬台国が大和を征服し、大和に本拠を移した説」がある。
でも後者については、遺跡の出土品が九州風のものに変化していった事実が微塵もないから、可能性はとても低いとされているよ。

⑤神武天皇から第10代崇神天皇までの隙間をどうするか問題
さて、日本史において実在が確実視されているのは第21代雄略天皇(456~479年)からですが、第10代崇神天皇(前97~前30年)も実在した可能性が高いとされています。
ですが、長い長い歴史の中で、
・記録に残る有能王「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)」→崇神天皇のことだ→これを始祖としよう!
・創作された神武東征伝説の「伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)」→神武天皇のことね→これを始祖としよう!
と諸々の記述が重なり、なんと「崇神天皇」と「神武天皇」、日本の始祖王が二人いることになってしまいました。
ここで有名な説を一つ。
「陰陽五行説に基づく辛酉(しんゆう)革命説に立って、王家の初代を神武天皇とし、その起源を紀元前660年に置こう!」
…どゆこと?

辛酉革命説とは?
1260年ごとに巡る「辛酉」の年に大きな変革があるとする説。
十干の「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」、十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の組み合わせのひとつ。
壬申の乱の「壬申」、戊辰戦争の「戊辰」、甲子園の「甲子」もここからきている。
十干は鬼滅の刃の鬼殺隊の階級として出てきていたよ。
つまり、
- 初代天皇は、古い方を取って神武天皇としよう
- 聖徳太子が活躍していた601年がちょうど「辛酉」の年だったね
- その1260年前を神武天皇の即位の年としよう
- 初代神武天皇から第10代崇神天皇までの間に八人の大王がいたことにしよう
それが、
第2代綏靖天皇
第3代安寧天皇
第4代懿徳天皇
第5代孝昭天皇
第6代孝安天皇
第7代孝靈天皇
第8代孝元天皇
第9代開化天皇
の、いわゆる「欠史八代」の誕生につながったというわけです。

…………へえ
⑥あとは史実と物語を掛け合わせて…
第12代景行天皇の皇子であるヤマトタケルは、朝廷にまつろわぬ民を制圧するため、西へ東へ大遠征しました。
・彼の西方遠征は、朝廷と九州南部の首長との交渉が盛んだった7世紀半ば頃のことを参照している
・彼の東国遠征路は、5世紀末の大和朝廷の勢力圏の範囲とほぼ一致している
つまり、大和王朝がしてきたことをヤマトタケルに被せ、彼を象徴の英雄とした、ということになるのでしょう。知らんけど。
| 26代・継体天皇/507年~531年 継体天皇を探し出した大伴氏、物部氏が自らの祖神を定める |
| 38代・天智天皇/668年~671年 中大兄皇子がクラスチェンジした姿。中臣氏らが自らの祖神を定める |
| 40代・天武天皇/673年~686年 天智天皇の弟。古事記の編纂を命じる(↑の情報を取りまとめる) |
| 43代・元明天皇/707年~715年 5回目・4人目の女帝。完成した古事記を受け取る |
以上のことをすべて信じる必要はありませんが、私は「こうした考えや成り立ちが本当だとしたらマジおもれえなあ」と感じました。
参考・絵画と歴史で解き明かす『古事記』の世界 武光誠/梅田紀代志(小学館)
おしまい!
