小野妹子 ~山の日にも海に行く~

歴史上の人物

 

いつの人?

・生没年不詳。聖徳太子に仕えた飛鳥時代の官人。
・近江国滋賀郡小野村(現大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身であるという。
・名前から女性と誤解されるが普通に男性。蘇我馬子だって○子であるからして、当時としては別に変じゃなかった(日本において「~子」が女性名とされるのは奈良時代以降)。

 

何をした人?

遣隋使

・当時、百済の僧が暦や天文、地理を伝えてくれて「すげー」となったため、日本も中国に学びたくなって派遣された。
・中国の文物を学ぶため、留学生や通訳たちと共に大海原と大陸大地を踏破する。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に送る。つつがなきや」
「日が昇る国の天皇が、日の沈む国の皇帝に手紙を差し上げます。おかわりありませんか」

隋の皇帝は聖徳太子からのこの手紙を見て「はァ!?天子!?予を差し置いて!?」と怒ったが、まあ許した。
これは高句麗遠征を控え日本を敵にしたくなかったからではと推測されている。

 

・608年4月に隋の使臣・裴世清を伴って帰国したが、隋の皇帝からの返書を百済で紛失。
これは隋の皇帝からの返書がものすごい失礼だったため「見せられないよ!」と思ってポイ捨てしたという話がある。
・手紙を紛失した罪は流刑に相当するものだったが、推古天皇によって恩赦され、罪に問われなかった(やさしい)。

 

・同年9月、裴世清の帰国に合わせて再び大使として隋に派遣される。
留学生や留学僧と共に国書を携え当地に赴き、翌年(609年)9月に帰国。

・最終的に最高位の官位である「大徳」を与えられる
・618年、隋が滅んで唐がおこる→「遣隋使」が「遣唐使」に変化するが、その後も300年近く大陸の文化を取り入れ続けた。

 

 

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