小野妹子は聖徳太子に仕えた飛鳥時代の官人。
生没年は不詳ですが、近江国滋賀郡小野村(現大津市小野)の豪族であり、第5代孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を氏祖とする、由緒正しき小野氏の若人です。
時々名前で女性と勘違いされますが普通に男性。蘇我馬子だって○子であるからして、当時としては別におかしくはなかったのです(日本において「~子」が女性名とされるのは奈良時代以降)。
遣隋使!
さて、小野妹子といえばこれしかないというくらいひたすらにこれのみをプッシュされる遣隋使!
当時、百済の僧が暦や天文、地理を伝えてくれて「すげー!」となったため、日本も東アジアの中心国であり先進国である中国に学ぼうぜってことで派遣が決定されました。
①新羅に負けてたまるかよ
②倭の五王による南朝への奉献以来、約1世紀を経ての再開だが、五王時代のように冊封を受ける(=臣下になる)のはナシにしよう
以上のスタンスで、600年~618年の18年間に3回~5回がんばったようです。
なんで回数がブレブレなんだよと思うかもしれませんが、これは第1回目にしてからが「カウントに入れる?なかったことにする?」とモメたからです。
↓ちなみに倭の五王↓
17代・履中天皇 400年~405年
仁徳天皇の子。「宋書」における讃王?
18代・反正天皇 406年~410年
履中天皇の弟。「宋書」における珍王?
19代・允恭天皇 412年~453年
反正天皇の弟。「宋書」における済王?
20代・安康天皇 453年~456年
允恭天皇の子。「宋書」における興王?
21代・雄略天皇 456年~479年
安康天皇の弟。「宋書」における武王?
第1回(600年/推古8年)
およそ1世紀ぶりの外交だったためか、この頃の倭国は外交儀礼に疎く、国書も持たずに(!)遣使しました。
日本の使者は隋の「文帝」からの質問に明確に返答することができず、「日本は野蛮で未開な国だ┐(´д`)┌」と断定されてしまいます。かなしいね。
日本「ええと、日本では、天をもって兄とし、日をもって弟とし、いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねています…」
中国「え、そんなやり方してるの? もうちょっとこう…うまくやりなよ」
これが国辱的な出来事だったとして、「日本書紀」から遣使の事実そのものが除外されたと言われているのでした(中国の「隋書」の記録には残っている)。
とはいえ、この時に隋の先進的な政治制度や文化を持ち帰ったことで、聖徳太子が「冠位十二階(603年)」や「十七条憲法(604年)」を作成できたと言われているので、普通に行ったカウントにしてもよかったよね。
第2回(607年/推古15年)
これが小野妹子が行ったやつです。
隋に派遣された小野妹子は、
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に送る。つつがなきや」
「日が昇る国の天皇が、日の沈む国の皇帝に手紙を差し上げます。おかわりありませんか」
という聖徳太子からの手紙を隋の皇帝である煬帝に渡し、
「はァ!?天子!?朕を差し置いて!?」とブチギレられました。
ここでのポイントは
①日本が隋の皇帝が「文帝」から「煬帝」に代わっていたことを知らなかった
②中国の皇帝でもない辺境の地の首長(聖徳太子)が「天子」を名乗った
が煬帝の逆鱗に触れたのであって、「日出処」「日没処」という部分は割とどうでもよかったということです。
日出日没云々は彼らにとっても単に東西の方角を表す仏教用語であるに過ぎなかったのですね。
煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「無礼な蕃夷の書は今後自分に見せるな!」と命じました…が、結局は日本と国交を結ぶことを決断しました。
理由としては、「高句麗遠征を控え、日本まで敵に回す余裕はなかったから」と推測されています。
かくして、聖徳太子は「中国の臣下にはならない。我々は対等だ」という表明外交を成功させたのでした。

翌608年(推古天皇16年)、小野妹子は「蘇因高」という中国名をもらい、その後返書を持たされて日本に帰国します。
裴世清(はいせいせい)という隋の使臣を同行させてくれるという厚遇ぶりでしたが、あら大変、帰国途上の百済で隋の皇帝からの返書を紛失してしまいます。
あってはならないミスですが、これはうっかり紛失したというより隋の皇帝からの返書がものすごく失礼(倭国を臣下扱い)だったため、小野妹子が「見せられないよ!」と思って計画的にポイ捨てしたという話があります。
隋の皇帝からの手紙を紛失するなど本来なら流刑に相当するものでしたが(実際、一時は流刑に処された)、最終的に推古天皇によって恩赦され、妹子は罪に問われませんでした。…聖徳太子も推古天皇も賢い人ですから、なんとなく理由を察したのでしょうね。
赦された小野妹子は、色々お疲れさまでしたとばかりに冠位十二階の上から5番目であった「大礼(だいらい)」から最高位である「大徳(だいとく)」に昇進。
翌年の609年(推古天皇17年)に実施された3回目の遣隋使でも代表を務める誉を得たのでした。

ちなみに、小野妹子の返書紛失事件は「日本書紀」にはあるけど「隋書」にはないんだよね。
それだけじゃなく、「隋書」には小野妹子の名前も、彼の中国名とされる「蘇因高」も出てこないんだ。不思議だよね。
ちなみに、日本は隋の皇帝の
「(要約)朕は天命を受けて天下を統治し、みずからの徳をひろめてすべてのものに及ぼしたいと思っており、そのこころに遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということで、朕はうれしく思う」
という超ウエメセの手紙に対して、
「東の天皇がつつしんで西の皇帝に申し上げます」
という書き出しで返答を出しています。
相手を「皇帝」と認めて若干へりくだりつつも、自らのことは「天皇」と称して、「あなたの臣下ではないんで」と毅然とした態度で接したということですね(「倭皇」の「皇」をもろた形)。
隋が高句麗と緊張関係にあったからこその強気の態度でしたが、ともあれこうして「冊封は受けない」とする倭国の姿勢は貫かれたのでした。
第3回(608~609年/推古16~17年)
裴世清を送るついでに小野妹子が再派遣。
この時は小野妹子、吉士雄成、鞍作福利らに率いられ、多くの学生、学問僧が隋へ留学、最先端の技術や文化を学ぶことになりました。
特に「高向玄理(たかむこのくろまろ」と「南淵請安(みなみぶちのしょうあん)」の滞在は32年間の長期にわたり、結果、隋の滅亡と唐の建国を体験することに。
彼らは640年、第34代舒明天皇の頃に帰国し、7世紀後半の倭国の改革に貢献することになったのでした。
最終回(614~615年/推古22~23年)
610年にも行ったとか、いやそれは第3回目の年次誤りだとか色々言われますが、とにもかくにもこれが最後の派遣です。意外と少ないんですよね。
この時は小野妹子はいなくて、犬上御田鍬・矢田部造らが派遣されました。
ちなみにこの時の隋は
①612年から614年にかけて高句麗に出兵→1回目大敗
②2回目の遠征の最中、戦費兵役負担から隋国内で反乱が起こり、煬帝が殺害される
③618年、隋が滅亡し、唐が成立
この出来事によって、「遣隋使」が「遣唐使」になりましたとさ。
その後も日本は積極的に大陸の文化を取り入れ続け、この努力は894年に菅原道真が遣唐使停止を建言するまで続きました。
法制度、統治機構(律令制度)、仏教や儒教の教義、医学、天文学、建築、美術、書道、文物…。
小野妹子は日本にこれらをもたらした公式使節団の、偉大な先駆者だったわけですね。

ちなみに小野妹子の子孫を辿れば、平安時代に歌人小野篁(おのたかむら)(802年~853年)が出現する。
ずば抜けた文武の才能と「夜は地獄で閻魔大王の補佐をしていた」という奇抜な伝説を持つスーパーエリート官僚で、小野小町の父親、祖父、親戚のいずれかだろうと言われているよ。
おしまい。
