筋金入りの皇子様にして神器をお披露目した英雄
ヤマトタケルはざっと西暦100年前後の人物です。
デジモンアドベンチャーというアニメに「ヤマト」と「タケル」という兄弟がいますが、その元ネタの人ですね。
恐れ多くも、父は第12代景行天皇、母は第7代孝霊天皇の皇孫という、由緒正しき皇子様。
『日本書紀』では第二皇子で、名前は小碓命(オウスノミコト)。双子の兄がいて、そっちの名前は大碓命(オオウスノミコト)。
『古事記』では第三皇子で、大碓皇子は同母兄でありNOT双子。同母弟がいて、この人が次の天皇となりました。

古事記は「記」、日本書紀は「紀」
ふたつまとめて「記紀」というよ
系譜としてはこう!
| 11代・垂仁天皇/前29年~後70年 ヤマトタケルのおじいちゃん |
| 12代・景行天皇/71年~130年 ヤマトタケルのおとうさん←ヤマトタケルはこの辺で活躍! |
| 13代・成務天皇/131年~190年 ヤマトタケルの異母弟 |
| 14代・仲哀天皇/192年~200年 ヤマトタケルの第2子 |
| 中継ぎ・神功皇后/201年~269年 ヤマトタケルの第2子の妻←邪馬台国と卑弥呼の記録はここ! |
| 15代・応神天皇/270年~310年 仲哀天皇と神功皇后の子 |
ただし、ヤマトタケルに関しては、
- 当時の記録がない
- 「各地に征討に出る天皇」や「その命令を部下に下す天皇」が割と多い
- 彼の西方遠征は(大和朝廷と九州南部の首長との交渉が盛んだった)7世紀半ば頃のことを踏まえてのものと思われる
- 彼の東国遠征路は5世紀末の大和朝廷の勢力圏の範囲とほぼ一致する
以上のことから、4世紀~7世紀ごろのヤマトの英雄を幾人か統合した架空の人物ではないかという説もあるようです。
なにはともあれ、「東西の蛮族を倒して大和王権の勢力拡大に貢献した伝説的英雄」!
最終的に都に戻ってくることはできませんでしたが、まあまあたくさんの妻と子をもうけました。

東奔西走(半強制)
①西国征伐
お父さん天皇に言われて、西方の豪族を倒しに行きます。
『古事記』では「どうして危険なところにばかり行かせられるのだろう…お父さんは僕のことが嫌いなのかな…」
『日本書紀』では「わかりましたお父さん、全部僕に任せてください!」みたいな感じで進みます。
②西国(九州)での活躍
九州に入ると、標的である地元の豪族・熊襲建(クマソタケル)がのんきに新築祝いの準備をしていたので、女装姿で宴に忍び込み(まだ15歳だったので似合った)、兄建、弟建の順でずんばらりと斬りました。
その際、弟建に「お前強いな…。倭建/日本武尊(ヤマトタケル)の号をやるよ」と言われ、礼もそこそこ真っ二つにしました。
③東征のきっかけ
『古事記』では、西方から帰ってすぐに父から東方の蛮族討伐を命じられ、「僕に死んで欲しいのかなあ…」としょんぼりしつつ出発です。
『日本書紀』では、東征将軍に選ばれたものの怖気づいて逃げてしまった大碓命(お兄さん)にかわり、「僕が行きます!」と疲れ知らずの立候補です。
『古事記』『日本書紀』、どちらのルートでも、伊勢神宮の真剣「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」をゲットします。
↓ちなみに草薙剣↓
- 出雲でスサノオノミコトがヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもの。一度は天照大神に献上されたが、天孫降臨(瓊瓊杵尊(神武天皇の曾祖父)が高天原から降りてきたアレ)に伴い、三種の神器の一つとして再び地上に戻ってきた。
- 元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名だったが、ヤマトタケルが駿河で野火攻めに遭った時、剣が独りでに鞘から抜け草を薙いで難を逃れたことにより、おそらくはNO報連相で「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と改名させられた。
- 一応言うと、ヤマトタケルがこの剣を武器(刃物)として使った記述はなく、今のところ「草を薙ぎ払うことができるのみの剣」である。
- ヤマトタケルはこの剣をミヤズヒメの元に残して荒ぶる神に挑んだことで亡くなる(持って行けよ)。このことから、草薙剣は武器というよりむしろ霊的な守護の力を持つ神器だった可能性がある。
- ミヤズヒメの元に遺された草薙剣はこの後熱田神宮にて祀られるが、668年、僧により盗まれる。その後、再度の盗難が怖くて宮中に留め置かれたが、686年の天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、再び熱田神宮に祀られた。
④東征のなんやかんや
①東征のはじめ、尾張国(愛知県)に立ち寄り、美夜受比売(ミヤズヒメ)という女性と結婚の約束をしつつ東方に進みます。
②相模国(神奈川県)で火攻めに遭うも、草薙剣で周りの草を刈り取って難を逃れ、逆に「火には火を」の精神で迎え火を点けてカウンターを食らわせました。
③相模国から上総国(千葉県)に渡る際、走水の海(東京湾)で海の神に高波を起こされ(『日本書紀』では海の神の怒りを買うようなことを言ったヤマトタケルが悪い)、妻である弟橘比売(オトタチバナヒメ)が入水することでこれを鎮める事態に(彼女は海の神が船に女性がいることに怒ったと考えたっぽい?)
④湾を渡り、なんやかんや荒ぶる蝦夷たちを服従させていきます。山や河の荒ぶる神を平定しつつ、土地の人が信仰する山や川の神を祀っていきました。
⑤たまにオトタチバナヒメを思い出し、「吾妻はや(わが妻よ……)」と嘆いたことで、東の国がアヅマ(東・吾妻)と呼ばれるようになったとか。
⑥尾張国に入り、婚約中だったミヤズヒメと結婚(ちなみにヤマトタケルは生涯で6人の妻を迎えています)。
⑦(なぜか)伊勢の神剣である草薙剣をミヤズヒメに預け、伊吹山の神を討ち取るため(無謀にも)素手で出立。
⑧伊吹山で白猪の神の怒りに触れ(神を殺すとか言うから…)、大氷雨に降られて失神、以降病の身の上に。
⑨弱った体で大和を目指すも、能煩野(三重県)で力尽きてしまいました。まだ30歳だったそうな。

いやこれ移動距離も悪いよね。徒歩だし。
カーリースをお勧めします。

日本最古のセイバーよ永遠なれ
⑤彼の死に際して
『古事記』でも『日本書記』でも、ヤマトタケルは、死後、白鳥になって大和を目指して飛んでいきます。
『古事記』では彼の后たちや御子たちが彼の死に関する歌をめっちゃ詠んだことで、これら4つの歌が「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となりました。
『日本書記』では父天皇がヤマトタケルを能煩野に葬りますが、ヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったため、棺の中は空っぽ以外の何物でもなかったそうです。
⑥お墓
宮内庁は「白鳥となって飛び立ったヤマトタケルが休憩に降りた三ヶ所」をヤマトタケルの墓とし、これら三陵を「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と呼んでいます。
- 日本武尊 能褒野墓(のぼののはか、三重県亀山市田村町)
宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。 - 日本武尊 (大和)白鳥陵(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田)
宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる。一説には円墳。 - 日本武尊 (河内)白鳥陵(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里)
宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「軽里大塚古墳」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。
⑦信仰
あちこち移動しただけあってヤマトタケルにまつわる神社は多く、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州、日本全国津々浦々に存在します。
最北端、最東端、最西端、最南端、東征軍営地はもとより、
- 戦勝祈願をして神社を建てたり
- 武運長久の祈願をして神社を建てたり
- 熊襲兄弟を刺し殺した短剣の柄を埋蔵して神社を建てたり
- 立ち寄った場所や休憩した場所や滞在した場所や多くの樹木を植えた場所に神社を建てたり
- 歌を詠んだことを記念して神社を建てたり
- 足の血を洗い流した場所に神社を建てたり
- 賊の火攻めに遭った時草薙剣で草を薙ぎさらに向い火をつけて難を逃れた記念に神社を建てたり
- 船で着岸した記念に神社を建てたり
- 船で出発した記念に神社を建てたり
- 風やませてって風神に祈ったら風やんだから神社を建てたり
- 神使の狼が東征時道案内をしてくれたお礼に神社を建てたり
- 濃霧で苦しんでいたら八咫烏が助けてくれたことに感謝して神社を建てたり
- 西征中台風に悩まされた時神助によりなんとかなったから神社を建てたり
- 神霊に祈念して神社を建てたり
- 賊徒に追い込まれた時富士の神を祈念し窮地を脱したから神社を建てたり
- 死んで白鳥となり熱田に向かう時この地で休んでから飛び立ったという伝承から神社を建てたり
伊能忠敬ばりにあちこち行って色々な理由で様々な神社を建造し、今なお後世の人間に様々な感慨を与え続けています。
これらのことを思いながらお参りに行くのも楽しそうですね。
おしまい。

