大王
昔の天皇は「治天下大王(あめのしたをしろしめすおおきみ)」と呼ばれていました。大事なこと全部盛り込んだ感じの大層なお名前です。
しかし、第40代天武天皇(673年~686年)の頃、中国の影響から脱し「日本列島の王は中国の皇帝に支配されない。むしろそれ以上の存在である」ということを内外に示すため、「~天皇(すめらみこと)」と呼称するようになりました。
気宇壮大、応援したいですね。

気宇壮大→心意気がデカく、構想や計画のスケールが大きく立派であること
豪族
新興豪族、大豪族、土着豪族といった有力者が色々あちこちに分布する時代でしたが、はっきりと大きいのは「畿内豪族」と「地方豪族」の別です。
大和政権の中枢部である大和、河内、摂津、山背に本拠を持つ畿内豪族(中央豪族)は今でいう東京人であり、流れに逆らわない限り結構な勢いで勝ち組であり続けました。
とはいえ、中央在住であっても大和王権に従わない豪族は下に見られることがあり、それが田舎豪族であれば余計、「土蜘蛛」やら「蝦夷」やら「未開人」やら面と向かってボロクソ言われる始末でしたが。
豪族にはこの頃から京都仕草が根付いていたのですね。
さて、朝廷において、豪族には出自や職能によって天皇から姓(かばね。地位のこと)が与えられました(氏姓制度)。
・臣(おみ)→畿内(都)の有力豪族
・連(むらじ)→一定の職掌を以て王権に仕える豪族(軍事・生産など)
・君(きみ)→地方・畿内の有力豪族
・直(あたい)→畿内の中小豪族、および渡来系豪族
・造(みやつこ)→渡来系豪族
・首(おびと)→畿内の中小豪族
この姓の間に上下関係はありませんが、「臣」姓の中から「大臣(おおおみ)」、「連」姓の中から「大連(おおむらじ)」が1~2名選ばれ、執政官としての役割を担うという「特別措置」が取られることはありました。
・有名な「大臣」といえば蘇我氏。蘇我氏は蔵の管理職(財務省のような仕事)で、斎蔵(宮廷の祭事)、内蔵(大王家の財物)、大蔵(政府関係の蔵)の三蔵を運営・管理する「経済の豪族」でした。
・有名な「大連」といえば大伴氏、物部氏などなど。大伴氏は「大(大王)の伴(供)」、物部氏はその名の通り「もののふ(軍事に関連する豪族)」、つまり軍事の豪族でした。
・大臣/大連に次ぐ有力豪族を「大夫(まえつきみ)」と呼びます。有名なのは阿倍氏、和邇(わに)氏、紀(き)氏、中臣氏などなど。

6~7世紀の政権は、基本的にこの「大王、大臣、大連、大夫」たちで回していたんだよ

第26代継体天皇と大伴氏と物部氏と蘇我氏と仏教の伝来
さて、継体天皇の即位と仏教の伝来。
流れとしてはこう!
①506年、第25代武烈天皇が子をもうけないまま18歳で崩御
②507年、大伴金村が越国(福井県)で第15代応神天皇の5世の孫を探し出し、第26代継体天皇として擁立する。反対する勢力がいたっぽく、継体天皇が大和に入ったのは即位から20年後のこととなる
③512年、大伴金村が朝鮮半島の任那四県を百済に割譲(割いて譲り渡す)
④527年、朝鮮半島で新羅が任那の二県を奪う。これを奪還するため継体天皇は6万人の兵を任那に派遣したが、この軍勢の進行を北九州の豪族磐井(いわい)が阻止。これは、新羅が磐井に賄賂を贈ったとも、単に九州の豪族による大和政権への反乱であったともいわれる(大和軍が朝鮮半島に行くたびに大量の物資や兵を徴発されるので)。大和軍は任那救済を諦め、磐井と戦闘を開始(527~528年・磐井の乱)
⑤物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し、大和政権がまあ圧勝。磐井の子は大和朝廷に自らの土地(製鉄の地であり、朝鮮半島との交易の拠点)を献上し、死罪を免れる。磐井の乱は地方豪族が大和王権に抵抗した最大にして最後の戦いとなった
⑥その後、大伴金村は軍事面を担当していたにも関わらず活躍できず、その後、朝鮮半島の任那四県を百済に割譲した件を糾弾されて失脚、隠居する(→大伴氏退場)
ちょっと時を置いて…
⑦538年、百済の聖明王が(日本と関係を深め、新羅との戦いを有利に進めたいという思惑で)金銅釈迦像と経典を第29代欽明天皇に贈り、公式に仏教を伝える
⑧神を祭る仕事をしていた中臣氏(中臣鎌足の先祖)や軍事・裁判担当の物部氏(大連・物部尾輿)は仏教を受けいれることに反対。受け入れようとする蘇我氏(大臣・蘇我稲目)と対立する(崇仏論争)
⑨物部守屋(もののべのもりや)や中臣氏がなんとか抵抗するも、蘇我馬子が物部氏の擁立皇子(穴穂部皇子。欽明天皇の子)を殺害し、泊瀬部皇子(穴穂部皇子の弟。後の崇峻天皇)を参戦させることで大義名分を得て物部守屋を殺害する(587年、衣摺(きずり)の戦い/丁未(ていび)の乱)→崇仏派の蘇我氏の勝利(→物部氏退場)。この時聖徳太子も蘇我氏側に加わっている
⑩蘇我氏によって即位した崇峻天皇が、自分をないがしろにする馬子を嫌う→馬子がキレて崇峻天皇を暗殺→593年に推古天皇を日本初の女帝とする
⑪推古天皇が聖徳太子(当時20歳)を摂政に任命(摂政=天皇に代わって政治を行う役職)→推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のトライアングルが完成
⑫645年、蘇我馬子の孫である蘇我入鹿が、中大兄皇子(第38代天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原氏の祖)らから「専横が過ぎる」として討ち取られる(乙巳(いっし)の変)(→蘇我氏退場)
| 崇仏派 | 廃仏派 | |
| 蘇我稲目 | 対立 | 物部尾輿 |
| 蘇我馬子 | 攻撃→ | 物部守屋 |
| 蘇我蝦夷 | …滅亡 | |
| 蘇我入鹿(乙巳の変で殺害される) | ||
こうして、大伴氏、物部氏、蘇我氏の三大貴族は歴史から姿を消した(いやどこかにご子孫はおられるんだろうけれども)…という流れになります。
有力貴族みんないなくなってんじゃん…と思うかもしれませんが、心配ご無用。このあと中臣鎌足が興した「藤原家」が大暴れしますんでね。
おしまい。

