聖徳太子 ~凝り散らかす天才~

歴史上の人物

 

いつの人?

・574~622年、古墳時代後期~飛鳥時代の皇族・政治家。
用明天皇の第2皇子だが、色々あって天皇の地位を継がず、叔母である推古天皇(554年~628年)の摂政として政治を行う。
遣隋使を派遣して中国の進んだ文化や制度を取り入れたのがこの人なので、推古天皇と聖徳太子、小野妹子はセットで覚えるとよい。
・享年49歳。

30代・敏達天皇
伝来した仏教の崇拝と排斥をめぐる対立が激しかった頃の天皇
31代・用明天皇
第29代欽明天皇と蘇我馬子の妹の子で、聖徳太子の父。病で亡くなる
32代・崇峻天皇
用明天皇の弟。蘇我馬子の思惑によって皇位に就き、その後馬子に暗殺される
33代・推古天皇
初の女帝。用明天皇の妹(母は蘇我馬子の妹)。聖徳太子の叔母であり、敏達天皇の皇后でもある
34代・舒明天皇
敏達天皇の孫。蘇我蝦夷によって聖徳太子の子を抑えて天皇となる

 

 

 

何をした人?

 

冠位十二階!
十七条憲法!
・天皇を中心とした中央集権国家体制の確立!
・仏教を厚く信仰!
・和を以て貴しと為せオラ!
・大阪に四天王寺、奈良に法隆寺を建立!(飛鳥文化の栄え)
・小野妹子を隋デビューさせる!(遣隋使

 

それまでの長き道のり↓「こんな苦労があったのじゃ…」

①538年、百済の聖明王が(日本と関係を深め、新羅との戦いを有利に進めたいという思惑で)金銅釈迦像と経典を第29代欽明天皇に贈り、公式に仏教を伝える。

②神を祭る仕事をしていた中臣氏(中臣鎌足の先祖)や軍事・裁判担当の物部氏は仏教を受けいれることに反対。受け入れようとする蘇我氏(財政・外交担当)と対立する(崇仏論争)(困った天皇は貰った仏像をとりま蘇我氏に預ける)(蘇我氏は仏教が広まれば日本古来の神の権威が亡くなり天皇の地位が落ちると考えた?)

③574年2月7日、聖徳太子が生まれる。

④585年、聖徳太子が13歳の時に父・用明天皇が即位。この時、蘇我馬子の要請で天皇が仏教帰依を表明したため、物部氏との対立がいよいよもって表面化する。

⑤この頃、何度も天然痘が広まり、「異国の神(仏教)を信仰したからでは?」という噂が立つ。587年、用明天皇(聖徳太子の父)が病没すると、蘇我氏と物部氏の対立が頂点に達した。

⑥「蘇我馬子+聖徳太子+紀氏+大友氏」VS「物部氏+中臣氏」の戦いが勃発。最初は物部氏が優勢だったが、蘇我馬子が物部氏の擁立皇子を殺害し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位に就けたことで決着がつく。

⑦588年、勝った馬子が飛鳥寺を建てる。仏教と共に入ってきた朝鮮半島からの渡来人が、優れた技術で寺院造営の中心を担ったという。

⑧ところで蘇我氏によって皇位に就いた崇峻天皇は、自分をないがしろにする馬子が嫌いだった(政治の実権を握られていたため)。

⑨馬子は馬子で「もっと都合がいい天皇が欲しいな。聖徳太子は駄目だ、頭が良すぎる」として、592年に崇峻天皇を暗殺、593年に推古天皇を日本初の女帝とする。

⑩推古天皇が聖徳太子(当時20歳)を摂政に任命(摂政=天皇に代わって政治を行う役職)。推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のトライアングルが完成する。

 

↓聖徳太子のスタンス↓

・聖徳太子は仏教を深く信仰していたが(日本の自然神と違い、仏は人々の苦しみを救ってくれるから)、日本の神道や八百万の神々への信仰、天皇中心の国家を崩すつもりもなかった。
・ただ、勢力を強めに強めた蘇我氏から政権を取り戻したいという思惑はあった。
・ゆえに優れたバランス感覚で仏の教えを学びつつ同時進行で天皇中心の国づくりを目指した。

 

冠位十二階!

・603年12月5日制定。
・能力のある者を登用するために定めた日本初の人事評価制度。家柄ではなく才能や功績ある者に色分けした冠を一代に限って与えた。
・特筆すべきは、「この位を授けるのは天皇である」としたこと。つまりこれによって天皇の権力は絶大だと知らしめた。

えらい↑
①大徳②小徳
③大仁④小仁
⑤大礼⑥小礼
⑦大信⑧小信
⑨大義⑩小義(←白/また別種の白)
⑪大智■⑫小智
比較すればえらくはない↓

 

十七条憲法!

・604年4月3日制定。
・国民のための憲法ではなく、官人のため、貴族や官僚に向けて道徳的な規範や心構えを説いた条文。
(新旧豪族の)和を尊び、仏教を信じ、天皇に従って(←特に大事)、公正な政治を行うことを説いた。

①和を尊び、争うことのないようにせよ
②あつく仏教を敬え
③天皇の命を受けたら謹んでその命に従え
④すべての役人は礼儀正しくせよ
⑤よこしまな心を捨て、公平に民の訴えをきかなければならない
⑥悪をこらしめ、善を広くすすめよ
⑦役人にはそれぞれ得意なことをさせよ
⑧役人は早く登庁し、遅く退出するように心がけよ
⑨何事をするにも信じあうようにせよ
⑩怒りの心を捨て、人の間違いであっても怒ってはならない
⑪手柄や失敗をはっきりさせ、賞罰を正しく行え
⑫勝手に税を取ってはならない。国に二人の君主なく、民に二人の君主はいない
⑬役人は自分の役目の内容をよく知っておくようにせよ
⑭役人たちはお互いにねたみ心をもたないようにせよ
⑮自分の利益を捨て、公のことに向かうのが臣下の道である
⑯民を使うときは農業や機織りがある春や秋を避けよ
⑰大事なことは一人で決めてはならない。必ずみんなで相談せよ

 

小野妹子を隋に派遣!

・中国の政治や文化を学び、隋と関係を深めることで、朝鮮半島の国々と対等以上に渡り歩こうとした。
・607年、遣隋使を派遣。2回目は608年。3回目は614年。
・遣隋使派遣時、聖徳太子が
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや(日の昇る国の天子から日の沈む国の天子に手紙を送ります。お変わりありませんか)」
と書き出して隋の皇帝・煬帝を微妙な気持ちにさせた(その頃、周辺諸国は隋の皇帝から称号をもらって国王に任命してされていたが(冊封)、聖徳太子は下手にへりくだらず、こうやって対等外交を仕掛けたのではないかと言われている)。
・宮中で箸を使い始めたのもこの頃。
小野妹子の報告「中国人箸使ってたんすよ!」

 

で。

 

622年、斑鳩宮で倒れた聖徳太子の回復を祈りながら、彼の妻が2月21日に死去。
翌22日(太陽暦4月11日)、その後を追うようにして病で死去した。
まだ蘇我氏の勢力は強いが、中国に送った留学生たちが帰国したらきっと自分の夢を実現してくれるだろうと信じながら。
(結局607年に隋に送った遣隋使が戻ってくるのは24年後、632年のことじゃった…)
享年49歳。

 

ちなみに…

・626年、蘇我馬子が亡くなる。跡取り息子は蝦夷(えみし)。
・628年、推古天皇が亡くなり、田村皇子(敏達天皇の孫)と山背大兄王(聖徳太子と蘇我馬子の娘の子)の間で後継者争いが起きる。

この↑ふたりはどっちも蘇我一族と繋がりがあるが、後者は自分たちの力を弱めようとした聖徳太子の子なので、蝦夷は関係者を殺してまで田村皇子を推した。
結果田村皇子が舒明天皇となるが、在位12年で崩御。
中継ぎとして舒明天皇の皇后が即位して、日本史上二人目の女帝、皇極天皇となった。

 

 

どんな人?

 

名前が長い

厩戸前にて出生したという記述があるため、
「古事記」では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」
「日本書紀」では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。
「聖徳太子」という名称は、751年(死去の129年後)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。

 

耳(頭)がすごい(豊聡耳)

ある時、人々の請願を聞く機会があった。
10人が同時に喋ったが、聞き漏らさずに一度で理解し、全員に的確な答えを返したという。

これには、10人という説の他、8人という説、いや11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取ったという説がある。いいから一人ずつ喋れ。

「頭がいい」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「豊かな耳を持つ」と順番で豊聡耳という名がついたという説もある。

近年では、当時の日本の「在来外来入り混じるあらゆる言語を解することができる優れた人物だった」とする説もある。

 

評価

・「仏教をもたらした=日本を歪めた」として厳しく批判されることもありつつ、基本的には「日本の釈迦」「浄土への導き手」として推され、「憲法制定の先駆者」「大国との外交家」として評価された。

・聖徳太子が活躍した推古朝は「聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治」「馬子が主導した」とも言われるが、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣といった偉業の発案者として歴史に名が残っていることをみれば、聖徳太子個人がすこぶる有能だったことがわかる。

・後に累計7回紙幣の肖像として使用された「お札の顔」。高度成長期における高額紙幣の代名詞となった。

 

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