空白の150年 ~大和クオリティ熟成期間~

歴史上の人物

 

日本にまだ文字や記録手段がなく
②西暦266年から413年まで、中国が倭(日本)を観測・記録するどころじゃないほど乱れた(中国の西晋=265~316年。東晋=317~420年)

そんな時代の150年のこと。
とはいえ、色々な観点から大体のことがわかっています。

 

空白の150年時の皇室・天皇

 

中継ぎ・神功皇后 201年~269年
239年、邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り、266年、壱与が晋に使いを送ったのが記録の最後
15代・応神天皇 270年~310年
仲哀天皇と神功皇后の子
16代・仁德天皇 313年~399年
応神天皇の第4子。困窮する民を見て3年間免税した人
17代・履中天皇 400年~405年
仁徳天皇の子。「宋書」における讃王?
18代・反正天皇 406年~410年
履中天皇の弟。「宋書」における珍王?
19代・允恭天皇 412年~453年
反正天皇の弟。「宋書」における済王?
20代・安康天皇 453年~456年
允恭天皇の子。「宋書」における興王?
21代・雄略天皇 456年~479年
安康天皇の弟。「宋書」における武王?

 

 

 

わかっていること①大和=現在の奈良県では

・4世紀の中頃から5世紀ごろ、大和朝廷が九州から東北地方南部までを従えて統一国家を作りました

・その後、皇室の祖先をはじめ、葛城氏、大伴氏、物部氏、蘇我氏などの大豪族が近畿地方で国内を治めはじめます
(「畿」とは「都」のこと。奈良県全域、大阪府全域、京都府南部の範囲を「畿内」という)

・朝廷警備。財政。軍事。祭り。国内団結強化。技術向上。農民の整理。民の確保。農地の整理。食料確保、等々。農民は開拓や墓づくりに駆り出されて大変だったそうです。

・ちなみに皇室の祖先である大王(おおきみ)は、7世紀ごろから天皇と呼ばれるようになりましたよね。

 

わかっていること②古墳

3世紀半ば~7世紀末にかけて、渡来人たちの技術によって作られた大王や豪族の墓。
特に大きいものはエジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵ほどにデカく育ちました。

歴代天皇陵大きさランキング
1位 16代・仁德天皇陵(486m)
2位 15代・応神天皇陵(425m)
3位 17代・履中天皇陵(365m)

古墳の出現は、大和政権の成立、その支配の広がりの証なのだ

 

 

わかっていること③朝鮮への出兵(倭・高句麗戦争 391~404年)

・古墳時代の中期、朝鮮半島を支配していた中国の支配力が弱まり、各地に高句麗・百済・新羅・伽耶諸国などが生まれました。

・その頃の日本は伽耶諸国に強い影響力を持っており、「伽耶諸国が負けたら鉄資源の供給が途絶えるじゃん!ヤダー!」となったため、やむを得ず参戦。

・百済と新羅が高句麗に服属→391年、大和政権が朝鮮に出兵して百済と新羅を破る。高句麗とも戦い、この時、敵の騎馬軍団からはじめて騎馬技術を学びました。「何アレ」「うまだって」「馬!スゲー!」

・400年、新羅に侵攻していた日本軍が高句麗によって伽耶諸島まで追い返される→404年、日本軍が高句麗に打ち負かされたことで、日本国内の財政が大変なことになってしまいました。

 

わかっていること④渡来人

・中国や朝鮮から渡ってきた人々(移住者や亡命者)を渡来人といいます。4~5世紀は中国系、6~7世紀は朝鮮系が多かったそうな

・彼らによって漢字、儒教、鉄器、機織りなどが伝わると、朝廷は渡来人に近畿やその周辺に土地を与えて住まわせ、朝廷の記録や財政の仕事にあたらせました。

・平安初期の「新撰姓氏録」によれば、貴族の出自1059氏のうち中国・朝鮮系渡来人は324氏、約30%を占めたといいます。

・後に台頭する蘇我氏なんかは、高い文化を持つ彼らを保護することでその勢いを強めた豪族でした。

 

わかっていること⑤後に発表された記録「宋書」によれば

・中国の「宋書」(宋=南北朝時代の南朝の王朝。420~479年。その正史。488年に完成)に日本の「倭の五王」に関する記録があります。

記録に書かれた「讃・珍・済・興・武」の五王がそれぞれ17~21代天皇っぽく、朝鮮半島での勢力を誇示するため、高句麗と対立する宋の皇帝に朝貢したと言われています。

 

こんな感じで!

 

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