まず大王(おおきみ)
昔の天皇は「治天下大王(あめのしたをしろしめすおおきみ)」と呼ばれていた。
第40代天武天皇(673年~686年)の頃、中国の影響から脱し、「日本列島の王は中国の皇帝に支配されない。むしろそれ以上の存在である」ということを内外に示すため、「~天皇(すめらみこと)」と呼称するようになった。
次に豪族
現代の古代史学では、とりま
・それ以外→地方豪族
として呼び分けている。
①豪族には、出自、職能によって、天皇から姓(かばね。地位のこと)が与えられる(氏姓制度)
②姓の間での上下関係はない
③ただし、「臣」姓の中から「大臣(おおおみ)」、「連」姓の中から「大連(おおむらじ)」が1~2名選ばれ、執政官としての役割を担うという「特別」はある
④大臣・大連に次ぐ有力豪族を「大夫(まえつきみ)」と呼ぶ。
・有名なのは阿倍氏、和邇(わに)氏、紀(き)氏、中臣氏など

6~7世紀の政権は、基本的にこの「大王、大臣、大連、大夫」くらいで回していたよ

じゃあ氏族って?
現代の歴史学者が分類すると、
・氏族→朝廷に官吏として仕える有力な血縁(非血縁を含む)集団・連合体
つまり、大和王権に服属しているか否かで表現が分かれ、
・大和王権に従う豪族は地方首長であっても氏族
・大和王権に従わない豪族は中央在住であっても氏族ではない(だから田舎者であれば余計に「土蜘蛛」やら「蝦夷」やら「未開人」やら面と向かってボロクソ言われる)
となる
大伴氏、物部氏、蘇我氏の三大豪族について
流れとしてはこう!
①25代・武烈天皇が子をもうけないまま崩御→大伴金村が26代・継体天皇(めちゃくちゃ探し出された第15代応神天皇の5世の孫)を擁立する
②一方その頃、朝鮮半島を南下して伽耶に攻め込みたい新羅が、九州の豪族である磐井に大和政権への謀反をけしかける(伽耶を攻める時、大和政権の邪魔が入らないようにするため)(527~528年・磐井(いわい)の乱)
③物部麁鹿火(もののべのあらかび)の活躍により大和政権がまあ圧勝。その時、大伴金村は軍事面を担当していたにも関わらず活躍できなかった→その後外交政策の失敗を糾弾されて失脚、隠居する
④538年、百済の聖明王が(日本と関係を深め、新羅との戦いを有利に進めたいという思惑で)金銅釈迦像と経典を第29代欽明天皇に贈り、公式に仏教を伝える
⑤神を祭る仕事をしていた中臣氏(中臣鎌足の先祖)や軍事・裁判担当の物部氏は仏教を受けいれることに反対。受け入れようとする蘇我氏と対立する(崇仏論争)
⑥物部守屋(もののべのもりや)や中臣氏が頑張るも、蘇我馬子が物部氏の擁立皇子を殺害し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位に就けたことで決着がつく(崇仏派の蘇我氏の勝利)
⑦崇峻天皇、自分をないがしろにする馬子を嫌う→馬子がキレて崇峻天皇を暗殺→593年に推古天皇を日本初の女帝とする
⑧推古天皇が聖徳太子(当時20歳)を摂政に任命(摂政=天皇に代わって政治を行う役職)→推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のトライアングルが完成
⑨645年、蘇我馬子の孫である蘇我入鹿が、専横がすぎるとして中大兄皇子(第38代天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原氏の祖)らに討ち取られる
以降、歴史から姿を消した…とかそんな感じ。
