蘇我入鹿 ~ピンポイントに討ち取られる~

歴史上の人物

 

いつの人?

・?~645年、飛鳥時代の豪族。父は蘇我蝦夷、祖父は蘇我馬子(551~626年)。
・蝦夷が大臣であった642年、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理この時、蝦夷が天皇の承認を得ずに入鹿に「紫冠」を授けたとして、大いにやっかみを受けました。
(ただし、「紫冠」は聖徳太子が作った冠位十二階から独立した存在であるため、蘇我氏内部で継承したとしても何ら問題はなかったという説もある)

このように蘇我氏は、憲法を無視し、皇室と親戚関係を結び皇室を凌ぐ力をつけ、大臣(おおきみ)として朝廷の財政と外交を担当し…

最終的にそれが気に入らなかった中大兄皇子(後の第38代天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原氏の祖)らに討ち取られました。

 

33代 推古天皇 592年~628年
敏達天皇の皇后にして初の女帝。聖徳太子、蘇我馬子の助けを得て政治を行う
34代 舒明天皇 629年~641年
敏達天皇の孫。蘇我蝦夷によって聖徳太子の子を抑えて天皇となる
35代 皇極天皇 642年~645年
舒明天皇の皇后にして2人目の女帝。この時、乙巳の変大化の改新が起きる
36代 孝徳天皇 645年~654年
皇極天皇の弟。大化の改新の立役者である中大兄皇子中臣鎌足の熟成期間の天皇
37代 斉明天皇 655年~661年
孝徳天皇の姉。つまり皇極天皇が62歳で重祚した3回目の女帝
38代 天智天皇 668年~671年
舒明天皇と皇極/斉明天皇の子。いわゆる中大兄皇子。白村江の戦いに敗れて防御に全振りする

 

祖父である蘇我馬子は推古天皇・聖徳太子とセットですが、
孫である蘇我入鹿は中大兄皇子・中臣鎌足とセットで覚えるとよいでしょう。

 

 

何をした人?

父を継いで大臣となり、皇極天皇の下で権勢を振るう

対立する上宮王家を排斥するなどの専横を憎まれる

はわ!中大兄皇子と中臣鎌足らにより討たれた!(乙巳の変・いっしのへん)

 

①643年12月20日、蘇我蝦夷、入鹿親子が、人望のある聖徳太子の息子、山背大兄王とその一族を滅ぼす(襲われて、父の建てた法隆寺に入り自決したとも言われる)。
入鹿は、当時の国際情勢を鑑み、「有能な個人が傀儡王を立てて独裁権力を振るえばよい」という、高句麗方式の権力集中を目指していたとも考えられている。

②645年7月10日、皇位継承や政治方針において対立関係にあった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らにより、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害される(乙巳の変)

 

宮中にて首を飛ばされた入鹿の絵画は有名!

後日、蝦夷は館に火をつけて自害し、蝦夷と入鹿の一族は皆殺しとなって、以降、蘇我氏は歴史の表舞台から姿を消したのだった…。

 

飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に「入鹿の首塚」が存在しまして、この高見山に鎌を持ちこむと必ず怪我をする、それは入鹿を殺害した中臣鎌足の「鎌」の字を忌むからである、とされています。

 

 

どんな人?

・母校に「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったらしい。
・学識と人格に優れ、最新の統治技術や国際情勢を積極的に学んだ人物であったという。
・ゆえに、入鹿の皇室への越権行為は、西から侵攻してくる可能性がある唐や百済、新羅を警戒していたためのものだった、という説もあるそうな。

 

色々と意外だね

 

 

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