聖徳太子は、574~622年の皇族にして政治家です。
用明天皇の第2皇子でしたが、色々あって天皇の地位を継がず、19歳の時に叔母である推古天皇(554~628年)の摂政(=天皇に代わって政治を行う役職)となりました。
神道国家のトップでありながら仏教を厚く信仰したことで「日本を歪めた」と批判されることもありますが、すべては「和を以て貴しと為せオラ!」という願いあってのこと。
その見識によって、「憲法制定の先駆者」「大国との外交家」等、数々の功績を残しました。
- 冠位十二階!
- 十七条憲法!
- 仏教の興隆に尽力!(大阪に四天王寺、奈良に法隆寺を建立)
- 天皇を中心とした中央集権国家体制を確立!
- 小野妹子を隋デビューさせる!(遣隋使)
- 享年49歳!
| 30代・敏達天皇 572年~585年・13年間 伝来した仏教の崇拝と排斥をめぐる対立が激しかった頃の天皇 |
| 31代・用明天皇 585年~587年・2年間 第29代欽明天皇と蘇我馬子の妹の子で、聖徳太子の父。病で亡くなる |
| 32代・崇峻天皇 587年~592年・5年間 用明天皇の弟。蘇我馬子の思惑によって皇位に就き、その後馬子に暗殺される |
| 33代・推古天皇 592年~628年・36年間 初の女帝。用明天皇の妹(母は蘇我馬子の妹)。聖徳太子の叔母であり、敏達天皇の皇后でもある |
| 34代・舒明天皇 629年~641年・12年間 敏達天皇の孫。蘇我蝦夷によって聖徳太子の子を抑えて天皇となる |

①仏教を厚く信仰!
流れはこう!
①538年、百済の聖明王が(日本と関係を深め、新羅との戦いを有利に進めたいという思惑で)金銅釈迦像と経典を第29代欽明天皇に贈り、公式に仏教を伝える。
②神を祭る仕事をしていた中臣氏(中臣鎌足の先祖)や軍事・裁判担当の物部氏は仏教を受けいれることに反対。受け入れようとする蘇我氏(財政・外交担当)と対立する(崇仏論争)(困った天皇は貰った仏像をとりま蘇我氏に預けた)(蘇我氏は仏教が広まれば日本古来の神の権威がなくなり天皇の地位が落ちると考えた?)
③時は流れて574年2月7日、聖徳太子が生まれる(母親は蘇我氏の女性)。
④585年、聖徳太子が13歳の時に父・用明天皇が即位。この時、蘇我馬子の要請で天皇が仏教帰依を表明したため、蘇我氏と物部氏の対立がいよいよもって表面化する。
⑤この頃、何度も天然痘が広まり、「異国の神(仏教)を信仰したからでは?」という噂が立つ。587年、用明天皇(聖徳太子の父)が病没すると、ついに蘇我氏と物部氏の対立が頂点に達した。
⑥「蘇我馬子+聖徳太子+紀氏+大友氏」VS「物部氏+中臣氏」の戦いが勃発(587年、衣摺(きずり)の戦い/丁未(ていび)の乱)。最初は物部氏が優勢だったが、蘇我馬子が物部氏の擁立皇子(穴穂部皇子/姿色端麗な額田部皇女を襲おうとした皇子)を殺害し、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を皇位に就けたことで決着がつく。
⑦588年、勝った馬子が飛鳥寺を建てる(仏教と共に入ってきた朝鮮半島からの渡来人が優れた技術で寺院造営の中心を担う)。
⑧ところで、蘇我氏によって皇位に就いた崇峻天皇は、自分をないがしろにする馬子が嫌いだ(政治の実権を握られていたため)。
⑨馬子は馬子で「もっと都合がいい天皇が欲しいな。聖徳太子は駄目だ、頭が良すぎる」として、592年に崇峻天皇を暗殺、593年に額田部皇女を日本初の女帝とする(→第33代推古天皇/38歳)。
⑩推古天皇が聖徳太子(当時20歳)を摂政に任命(摂政=天皇に代わって政治を行う役職)。推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のトライアングルが完成する。

聖徳太子から一言
「確かに私は仏教を深く信仰しています。
ですが、それによって日本の神道や八百万の神々への信仰を捨てることや、天皇中心の国家を崩すつもりは、微塵もありませんでした。
私が仏教の教えに精通することは、蘇我氏だけにその分野に関する裁量や決定権を渡さないというメリットもありましたし。
最重要はあくまで皇族であり、私は、仏の教えを学ぶのと同時進行で、祖国のため、子孫のために、天皇中心の国づくりを目指したつもりです」

2歳で念仏を唱え、6歳でお経を読み始めるという傾倒ぶり。
日本の自然神と違い、仏教の神仏は人々の苦しみを救ってくれるから、そりゃ傾倒するしかなかったよね。
②冠位十二階!
603年12月5日制定(聖徳太子29歳)。
能力のある者を登用するために定めた日本初の人事評価制度。
家柄ではなく才能や功績ある者に色分けした冠を一代に限って与えました。
特筆すべきは、「この位を授けるのは天皇である」としたこと。
これによって「偉いのはあくまで天皇!」「昇進させてあげるから感謝してね!」「天皇の権力は絶大なんだからね!」と知らしめたわけですね。
↑えらい
①大徳■②小徳■
③大仁■④小仁■
⑤大礼■⑥小礼■
⑦大信■⑧小信■
⑨大義■⑩小義■
(↑白/また別種の白)
⑪大智■⑫小智■
↓そこそこえらい
③十七条憲法!
604年4月3日制定(聖徳太子30歳)。
国民のための憲法ではなく、官人のため、貴族や官僚に向けて道徳的な規範や心構えを説いた条文。
- 「(新旧豪族の)和を尊び」
- 「仏教を信じ」
- 「天皇に従って(←超絶大事)」
- 「公正な政治を行うこと」
を説きました。
①和を尊び、争うことのないようにせよ
②あつく仏教を敬え
③天皇の命を受けたら謹んでその命に従え
④すべての役人は礼儀正しくせよ
⑤よこしまな心を捨て、公平に民の訴えをきかなければならない
⑥悪をこらしめ、善を広くすすめよ
⑦役人にはそれぞれ得意なことをさせよ
⑧役人は早く登庁し、遅く退出するように心がけよ
⑨何事をするにも信じあうようにせよ
⑩怒りの心を捨て、人の間違いであっても怒ってはならない
⑪手柄や失敗をはっきりさせ、賞罰を正しく行え
⑫勝手に税を取ってはならない。国に二人の君主なく、民に二人の君主はいない
⑬役人は自分の役目の内容をよく知っておくようにせよ
⑭役人たちはお互いにねたみ心をもたないようにせよ
⑮自分の利益を捨て、公のことに向かうのが臣下の道である
⑯民を使うときは農業や機織りがある春や秋を避けよ
⑰大事なことは一人で決めてはならない。必ずみんなで相談せよ
④小野妹子を隋に派遣!
中国の政治や文化を直に学ぶことで、朝鮮半島の国々と「同等」を通り越して「対等以上」になろうと画策します。
そんなわけで、607年(聖徳太子33歳)、「行ってらっしゃい!!!」とばかりに遣隋使を派遣。
その際、
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや(日の昇る国の天子から日の沈む国の天子に手紙を送ります。お変わりありませんか)」
という手紙で隋の皇帝・煬帝を激怒させましたが、聖徳太子は下手にへりくだらず、こうやって対等外交を仕掛けたのではないかと言われています。
宮中で箸を使い始めたのもこの頃。
小野妹子の報告「中国人箸使ってたんすよ!」

⑤それから…
それから…?
ああ、名前が長いですね。
イエス・キリストよろしく厩戸前にて出生したという記述があるため、
- 古事記では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」
- 日本書紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」
とされました。完全に寿限無の流れ。
「聖徳太子」という名称は、751年(死去の129年後)に編纂された『懐風藻』が初出なのだそうです。
あと耳(頭)がいい(豊聡耳)。
「人々の請願を聞くさなか、10人が同時に喋ったが、聞き漏らさずに一度で理解し、全員に的確な答えを返した」と言われています。
これには「10人じゃなく8人だ」「いや11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取った」などの異説もありますが、いいから一人ずつ喋れ。
「頭がいい」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「豊かな耳を持つ」という順番で豊聡耳という名がついたという説も。
あるいは、「誰がどんな懇願をしたのかを逐一覚えている」=「記憶力がすごかった」説とか。
近年では、当時の日本の「在来外来入り混じったあらゆる言語を解することができる優れた人物だった」とする説も爆誕しています。
620年、まさにナイスミドルになった頃、蘇我馬子と協力して、
- 天皇家の系図や歴史をまとめた「天皇記」
- 歴史書や地理書ともいわれる「国記」
の編纂を行っています。
その2年後の622年、斑鳩宮で倒れた聖徳太子の回復を祈りながら、彼の妻(蘇我馬子の娘…かもしれん。妻は4人いた)が2月21日に死去。
当の聖徳太子も、翌22日(太陽暦4月11日)、その後を追うように病で死去しました。
「まだ蘇我氏の勢力は強いが、中国に送った留学生たちが帰国したら、きっと自分の夢を実現してくれるだろう…」と信じながら。
(結局、608年に隋に送った多くの学生、学問僧たちが帰ってきたのは、隋が滅亡し唐が建国した後の640年、第34代舒明天皇の頃じゃった…)
享年49歳。

聖徳太子が亡くなった時、彼の愛馬である「黒駒」が血の涙をこぼし、一緒に死んだといわれているよ。
「黒駒」は、聖徳太子が居住地「斑鳩(いかるが)」から20キロ離れた政治の中心地「飛鳥」に通う際、毎日乗っていた相棒。
その道は「太子道」と呼ばれ、現在は観光名所になっているんだ。
聖徳太子が活躍した推古朝は、
「聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治? いや、完全に年上である馬子の主導政治でしょ」
とも言われますが、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣などの偉業の発案者として名が残っている事実をみれば、普通に聖徳太子個人がすこぶる有能だったことがわかります。
後世においては、累計7回紙幣の肖像として使用された「お札の顔」。高度成長期における高額紙幣の代名詞ともなりました。
それだけ「縁起がいい」とされたのでしょう(か)ね。
おしまい。

