中大兄皇子 ~成長痛不可避的波乱人生~

歴代天皇

 

いつの人?

・626~671年。田村皇子(のちの舒明天皇)の第2皇子で、母は後の皇極天皇(この女帝は重祚して斉明天皇にもなる)。
・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」の意。
645年6月(19歳)、乙巳の変(いっしのへん)により蘇我宗家(蝦夷、入鹿親子)を滅ぼした後、中臣鎌足と共にかの有名な大化の改新を行います。
・しかし即位が遅く、在位期間は668年2月20日~672年1月7日と、すこぶる刹那の輝きなのでした。

33代 推古天皇 592年~628年
敏達天皇の皇后にして初の女帝。中大兄皇子は彼女の治世である626年生まれ
34代 舒明天皇 629年~641年
敏達天皇の孫。蘇我蝦夷によって聖徳太子の子を抑えて天皇となる
35代 皇極天皇 642年~645年
舒明天皇の皇后にして2人目の女帝
36代 孝徳天皇 645年~654年
皇極天皇の弟。大化の改新の立役者である中大兄皇子と中臣鎌足の熟成期間の天皇
37代 斉明天皇 655年~661年
孝徳天皇の姉。つまり皇極天皇が62歳で重祚した3回目の女帝
38代 天智天皇 668年~671年
舒明天皇と皇極/斉明天皇の子。いわゆる中大兄皇子。白村江の戦いに敗れて防御に全振りする
39代 弘文天皇 671年~672年
天智天皇の子。乱により自害
40代 天武天皇 673年~686年
天智天皇の弟。天智天皇の子である弘文天皇と彼との間の戦いを壬申の乱という

 

 

何をした人?

色々やりましたよね。

乙巳の変(いっしのへん)

・645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中臣鎌足と共に皇極天皇の御前で、皇族でもないのにハチャメチャにブイブイ言わせてた蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。

・翌日に入鹿の父である蘇我蝦夷が自害。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は彼の皇太子となって、様々な改革を行う(大化の改新)。

・9月、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで処刑(割とえげつないこともやる)。

・12月、難波長柄豊碕宮へ遷都。

 

大化の改新

646年、かの有名な「大化の改新」4つの基本方針は以下の通り

①これまで天皇家が直接支配していた地、有力な豪族の私有地をすべて国家のものとする
②都周辺を畿内とし(ほぼ奈良県全域、大阪府全域、京都府南部)、地方には行政官を置き、駅を設けて交通を整備する
③戸籍をつくり、6歳以上に田地を分け与え、死後その土地を返納させる(班田収授法
④これまでの税制を廃止し、田に対して新しい形の税を課す

 

・天皇の政務を補佐する「左大臣」と「右大臣」が誕生したのはこの時でした。

・そんなこんなで、さっそく大化の改新の味方してくれた蘇我氏を右大臣に任命(この蘇我氏は蝦夷や入鹿といった「宗家筋の蘇我」ではなく、彼らと敵対することを選んだ「分家筋の蘇我」)。

・中臣鎌足が内臣(天皇の信任の厚い側近。左右大臣に次ぐ地位)として孝徳天皇と皇太子を補佐。一方の中大兄皇子は長い間皇位に就かず、ずっと皇太子のままでいました(後述)。

 

他、

 

①647年、土地を取り上げられた豪族たちの不満をそらすため、冠位十二階を冠位十三階に → 649年、さらに冠位十九階に増設(後にさらに増える)。

②653年、中大兄皇子が次第に独断で政治を行うようになり、孝徳天皇との間に深い溝ができる→最終的に中大兄皇子が群臣らを率いて飛鳥に移る。

③654年、孝徳天皇が崩御。655年、皇極天皇が再び斉明天皇として即位し(重祚)(3人目の女帝)、中大兄皇子が引き続き彼女の皇太子を務めることに。

④658年、蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児である有間皇子を謀反の罪にて処刑(やっぱりえげつないことをする)。

⑤659年、阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる(国土の平定に着手)。

などなどなどなど。

 

大陸ともやり合う

・660年、「唐の力を借りて半島を統一しようと考えた新羅」VS「百済&高句麗」の戦いが勃発。
攻められた百済の将兵が、日本に対し、援軍の要請と「639年に人質として預けた百済の王子(扶余豊璋)を返してくれ」と言ってきます。

ちょっと悩む日本。「ここで援軍を派遣したら唐を敵に回しちゃうよね」「でも百済が滅びれば日本の朝鮮半島での勢力が失われちゃうし」「何より放っておいたら唐が日本に攻めてこないとも限らないわけで」→「どうしよう…」。

・661年、結局、滅ぼされた百済再興を救援するために西下。
ところが8月に斉明天皇が崩御。皇太子である中大兄皇子が皇太子のまま(即位しないまま)遠征軍の指揮をとることになってしまいました。

・3万2000人の軍勢を百済に派遣するも、663年、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦いで唐・新羅軍に大敗。

・百済や高句麗の王族や貴族、亡命者たちと共になんとか日本に戻ってくるが、

①軍属「おいどうする唐が攻めてきたら!」
②民「これだけ協力したのに負けたのかよ!」
③貴族「大化の改新で持っていた土地を取り上げられたり、氏ではなく個人の能力で冠位を決めるとか、すげえ貴族差別じゃない?」

結果、国内防備をガチガチに固めたり、冠位十九階を冠位二十六階にしたり、「偉い人に太刀、次の偉い人に小刀、次の偉い人に弓矢」を与えたり、しゃーなしに豪族の私有民を定めたりしました。

 

白村江の戦いから戻り、国防意識が爆発。国内の防衛をこれでもかと強化

①今いる場所は攻め込まれたらひとたまりもないとして、667年、近江大津宮(現在の大津市)へ遷都(都が畿内から外に移るのは初めて)。

②水城や堤防を築き、防人に守らせる。

③それまでの十九階だった冠位を二十六階へ拡大し、行政機構の整備を同時進行。

④お待ちかね! 668年、ここでようやく中大兄皇子が天智天皇に即位(43歳)。
ちなみにこの年、唐・新羅軍によって高句麗がサクッと攻め滅ぼされる。

⑤669年、中臣鎌足が56歳で亡くなる。亡くなる前日、天智天皇の弟である大海人皇子から「大織冠」と「大臣の位」、そして「藤原の氏」を授けられた。
(大織冠=朝廷での最高の地位。彼だけにしか授与されなかったので、後に鎌足の別称となる)

⑥670年、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成し、公地公民制導入の土台を築く。

 

ちなみにその後、唐と新羅は日本に攻めてくることなく、逆に友好を求める使節団を送って寄越してきたのでした。ミラクルセーフ。

 

そして後継者争いへ

①即位した天智天皇は、当初、同母弟の大海人皇子(おおあまのおうじ/後の天武天皇)を皇太弟としたが、気が変わり、671年、自らの第1皇子である大友皇子(おおとものおうじ/後の弘文天皇)を史上初の太政大臣とした(当時の慣例では皇位を継ぐ資格があるのは皇后から生まれた皇子だけであり、身分の低い母を持つ大友皇子を後継者に選定するのはありえないことだった)。

②病床の枕元に弟を呼んだ天智天皇は「お前に後を譲る」と宣言するが、ここで頷いたら謀反の罪を着せられるかもしれないと思った大海人皇子はスパッと断り、「出家して修行します! じゃ!」と言って武器をすべて朝廷に差し出し、逃げるように吉野に去って行った(ナイス危機管理意識)。

③大海人皇子が皇太弟を辞退したので、代わりに大友皇子が皇太子となる。その年の12月に天智天皇が崩御(46歳)。

④とはいえ、人格者である大海人皇子を推す声が後を絶たない。朝廷は朝廷で「大海人皇子が戻ってくるかもしれない」と大和の要所要所で警戒態勢を敷く。

⑤どうやら大友皇子(25歳)が戦争の準備をしていることを知った大海人皇子、攻撃されたらひとたまりもないとこれに対立、壬申の乱がおこる。

⑥多くの者が味方し(名を高めたい大伴氏とか、それに呼応した豪族とか)、大海人皇子が勝利。大友皇子は山中で自害する。

 

結局、第38代天智天皇(中大兄皇子)の治世は3年、彼の子である第39代弘文天皇(大友皇子)の治世は1年。
それに対し、乱により即位した第40代天武天皇(大海人皇子)の治世は13年間続きましたとさ。

 

これ以降の天武天皇については「天武天皇」のページへ

 

 

どんな人?

 

中大兄皇子が長く即位しなかったことは7世紀の政治史における謎の一つに数え上げられるそうな。

・中大兄皇子の弟とされる大海人皇子(天武天皇)は、実は弟ではなく兄であり、彼に配慮したのではないかという説。
・クーデターを起こし、大化の改新によって豪族たちから土地を取り上げる政策を打ち出したため政敵が多く、すぐに天皇になると不満が集中するかもしれないから説。
・天智天皇は元々有力な皇位継承者ではなかったため、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。

実に色々ある。

 

そしてどうあっても蘇我氏から逃れられない運命…
なんというか、

・蘇我蝦夷と蘇我入鹿を抹殺する645年の乙巳の変でも分家筋の蘇我氏を頼り、
・646年、東国に派遣する国司にも6人の蘇我氏を任命し、
・自身や親族の后妃にも蘇我氏の女性を選び、
・晩年にも大友皇子の補佐役に蘇我氏を選び、

と、自身の基盤作りにさえ(伝統的な貴族である)蘇我氏の権力に頼らざるを得ないという悲哀がありました。
上流階級あるあるって感じですね。

 

 

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