坂上田村麻呂は、758~811年、平安時代の公卿にして武官。
9人兄弟の3男で、実家は応神天皇の時代に中国大陸から渡来した阿智使主(あちのおみ)の子孫。その血統は後漢の霊帝に連なると言われています。
その強さは『公卿補任』に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、後々まで語り継がれました。
- 光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の4代に仕えた忠臣!
- 桓武天皇の軍事を支えた一人であり、征夷大将軍を勤めて東北地方の異民族(蝦夷)を平定!
- 出世しまくったので官位や肩書きがものすごいことに!
- 死後は嵯峨天皇の勅命により(本人の希望通りに?)鎧兜をつけ、立ったまま柩に納めて埋葬!
- 「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられ、今も神将や武神、軍神として親しまれている!
| 坂上田村麻呂を頼った皇族 |
| 49代・光仁天皇/770~781年 おじいちゃん |
| 50代・桓武天皇/781~806年 おとうさん。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命 |
| 51代・平城天皇/806~809年 こども/おにいちゃん。病弱だったため弟に皇位を譲る |
| 52代・嵯峨天皇/809~823年 こども/おとうと。坂上田村麻呂に色々助けられる |
| 53代・淳和天皇/823~833年 こども/腹違いのおとうと |

母親が百済系の渡来人である桓武天皇に渡来人仲間として深く信頼されていたよ

何をした人?
まあ昇進し、まあ戦いましたよね。
| ①758年爆誕(0) 生家は弓馬や鷹の道を世職とする武門の誉れ高き一族。父も祖父も曾祖父もすごい人だが、とはいえ当時は地方的な豪族にすぎず、没落を防ぐことが急務だった |
| ②780年(23) 近衛府の将監(宮中警護)として出仕 |
| ③785年(28) 安殿親王(後の平城天皇)が立太子するタイミングで地方的豪族から中央貴族へ転身(昇進) |
| ④791年(34) 征東副使として蝦夷討伐に参加 |
| ⑤797年(40) 桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられる |
| ⑥798年(41) 清水寺を建立 |
| ⑦799年(42) 近衛権中将になる。この頃の肩書きは「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」 |
| ⑧801年(44) 桓武朝による第三次蝦夷征討を実行→凱旋帰京。近衛中将に任命される |
| ⑨802年(45) 蝦夷の族長「阿弖流為(アテルイ)」と「モレ」を降伏させる |
| ⑩804年(47) 桓武朝第四次蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命される(翌年、この蝦夷征伐は中止となる)。この頃の肩書きは「征夷大将軍従三位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」 |
| ⑪806年(49) 桓武天皇が崩御→安殿親王(平城天皇)に仕える。中納言、中衛大将と立て続けて要職を兼ね、最終的に「中納言征夷大将軍従三位兼行中衛大将陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」という肩書きに |
| ⑫807年(50) 中衛府が右近衛府に改称されたことにより、中衛大将から右近衛大将となる→侍従、兵部卿も兼任し、父を超える正三位となる |
| ⑬810年(53) 平城京の造京使になる→大納言になる→薬子の変の鎮圧に出撃(平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子とその兄・藤原仲成によるクーデター) |
| ⑭811年(54) 病により山城国粟田の別宅で生涯を閉じる→従二位が贈られる |
791年、田村麻呂は11年かけて降伏させた蝦夷のリーダー阿弖流為(あてるい)の助命を嘆願しましたが、都の公卿たちが「バカを言うな」と言って処刑してしまいました。
偉い人には「あいつを生かしたまま蝦夷の民を支配下に置いた方が占領行政もすんなりいくだろう」という武人の心がわからんのですよ。
実際どんな人?
生涯で2度も征夷大将軍に任命された逸材でした。
身の丈5尺8寸(約176cm)は、当時としては堂々たる体躯で、
「目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っている。
重い時は201斤(約120kg)、軽いときには64斤(約38kg)のように行動は機敏であり、立ち振舞いは理にかなう。
怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」
と伝えられています。
「策は本陣でめぐらせ、勝ちを決するのは千里の外であった。
華夏に学門を学び、張将軍(張良)のように武略があり、蕭相国(蕭何)のように奇謀があった」
という武芸への賛辞はもちろん、
「真心は面に顕われ、桃花は春ならずして常に紅い。
生まれながらに勁節(強い意思)を持ち、松の色は冬を送りてただ翠なり」
と器量や誠実さや高潔な品性をこれでもかと称えられました。
武器として、御剣「坂家宝剣」、大刀「騒速」、大刀「黒漆剣」などを佩刀していたようです。

誰か漫画描いて

それから
・京都府京都市東山区の清水寺を建立した事でも有名。
清水寺本堂近くにある「開山堂(田村堂)」には坂上田村麻呂公夫妻の像が祀られている
(当時は怨霊が恐れられていた時代だったので、蝦夷の賊徒の怨霊を鎮める意図もあり、田村麻呂は寺社の創建に積極的だった)
・『公卿補任』に「毘沙門の化身、来りて我が国を護ると云々」とある。
生前にはすでに北方鎮護の仏・毘沙門天の生まれ変わりであるとの評判が立っており、もはや「王城鎮護」「平安京の守護神」の勢いであったとみられる(後に上杉謙信も彼に思いを馳せた)
・嵯峨天皇が「死後も平安京と天皇を守護してくれるように」と願って埋葬した。
「もし国家に非常時有れば、則ち件の塚墓は苑も鼓を打つが如く、或いは雷電の如し。爾来、将軍の号を蒙りて凶徒に向う時は先ずこの墓に詣で、誓い祈る」
・彼を祀る神社が全国にあり(北海道から福岡県まで)、それこそ「学問の菅原道真」「武芸の坂上田村麻呂」といった扱いだった
・彼の娘が桓武天皇の妃となって葛井親王を産み、その血筋が清和源氏、藤原氏、桓武平氏へ受け継がれていった
・後年、源頼朝が「なんか強そうな将軍名ない?」と望んだ際、
「惣官」→平宗盛が任官→縁起悪い、却下
「征東大将軍」→源義仲が任官→縁起悪い、却下
「上将軍」→前例がない、却下
「征夷大将軍」→いいじゃん、坂上田村麻呂じゃん!
という流れで結局「征夷大将軍」になったとか
・鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前との繋がりも調べてみると面白い。
女神である鈴鹿姫と盗賊である立烏帽子が同一視され、田村麻呂の英雄譚に組み込まれた
→女神面:天人、天女とされ、鈴鹿峠では田村麻呂と一対の夫婦神として信仰されている
→盗賊面:田村麻呂が鈴鹿御前と戦った折の刀が「鬼切」であり、彼はそれを伊勢神宮に奉納、その後、源頼光に伝えられたと創造された
とはいえ、生涯において彼の妻は三善清継の娘・高子の、ひとりきりであるという

1910年代、なんかカナダの人類学者が「田村麻呂は黒人である」とか言い出して、現在でも一部の黒人コミュニティ内で信じられているそうな
おしまい。
