平将門は、(多分)903年生まれ、940年に38歳で没した、平安時代の関東の豪族です。
第50代桓武天皇の子供の子供の子供が「889年、平氏の姓を授けられ、「平高望」となった高望王」、そのさらに子供が「鎮守府将軍である平良将」、そのまた子供が平将門でした(要するに桓武天皇の五世)。
- 下総国/常陸国に広がった平氏一族(自分ち)の抗争→からの関東諸国を巻き込む争い
- 国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜
であれよあれよという間に朱雀天皇の朝敵となりました(平将門の乱)。
| 59代・宇多天皇/887~897年 光孝天皇の第7皇子。これ以上の藤原氏の外戚化を防ぐため、菅原道真を抜擢する |
| 60代・醍醐天皇/897~930年 宇多天皇の子。摂政・関白を置かず親政を実現して「延喜の治」と賛美されたが、菅原道真を左遷させられ、再度藤原氏の権勢を許してしまう。晩年は菅原道真の怨霊を恐れるようになり、病に伏して譲位した |
| 61代・朱雀天皇/930~946年 醍醐天皇の第11皇子。藤原忠平に政治を主導される。富士山の噴火、地震、平将門の乱、藤原純友の乱などの騒動が頻発し、いずれも菅原道真の祟りと噂された |
最終的に、藤原秀郷(俵藤太)・平貞盛(将門の従兄弟)らによって討伐されました。
日本三大怨霊の一人として知られていますが、仁義に厚く温かい人物であったとされており、今では御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られています。
墓所は東京都千代田区の将門塚(首塚)。

平将門は「馬上での戦闘に適した反りのある日本刀を広めた人」とも「同年に亡くなった菅原道真の生まれ変わり」とも言われているよ
なにゆえに荒ぶるのか
親族環境と…色々と頼まれたからと…あとは本人の性格…ですかね…。
- 父の平良将は下総国佐倉(千葉県佐倉市)の領主だった(らしい。根拠となる史料はない)
- 将門は15歳の時に平安京へ出て、藤原北家の氏長者(当主)であった太政大臣・藤原忠平を主君としていたが、鎮守府将軍である父を持ち、将門自身が桓武天皇の五世であっても、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、12年ほど在京しても望むように出世できなかった
- 謎に伯父①である平国香に嫌われていた(当時は長子相続制度が確立していなかったため、国香(長男)や良兼(次男)が、良将(三男/将門の父)がもらった遺領に納得できなかったためと思われる)。襲われたが返り討ちにする
- 源護(みなもとのまもる)という武士にも嫌われていた(即座に返り討ちにする)
- 源護と姻戚関係にあった一族の平氏にも嫌われていた(即座に返り討ちにする)(※この頃の源氏と平氏はまだ仲が悪くなかった)
- 930年頃、父の死がきっかけで下総国へ帰ってみると、伯父①の国香や伯父②の良兼に土地を支配されていた
- 祖父が拓き、父が残してくれた土地なのに…と怒り、935年、将門が常陸国で伯父①の国香を殺害
- 936年、静観していた伯父②の良兼が、さすがに一族の長として放置できなくなって将門を攻めるが、やはり即座に返り討ちに遭い、下野国の国衙に保護を求める
- 下野国国府を包囲した将門は、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせる
- 源護によって出された告状によって朝廷から召喚命令が出る。将門は平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、937年の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される
- 帰国後も一族の大半と対立(つよい)
- 8月6日、良兼が将門の父の良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻める。この戦いで将門は敗走。良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る
- 助けの手によって、9月10日、将門の妻子が将門の元に戻る
- 妻子が戻ったことに力を得た将門は、朝廷に対して自らの正当性を訴える
- 将門が良兼らの兵を筑波山に駆逐する。それから3年の間に良兼は病死。将門の威勢と名声が関東一円に鳴り響く
そして平将門の乱
上記はまだ「乱」ではなかったという…。

まあお家騒動だよね。
- 将門、「頼れる漢」として色々な人から頼られるようになる
- 939年、常陸国の豪族である藤原玄明が、「私の逮捕状が出た。助けてほしい」と将門を頼ってくる
- 将門は国司から彼の引き渡しを迫られるが、それを無視…というか「逮捕状を撤回しなよ」と求めたところ、拒否され、さらに宣戦布告される
- 仕方なく玄明の常陸国を攻め、約3倍の軍勢に勝利して(3000人に対して1000人)、降伏させる
- 将門が国司の証である「印綬(いんじゅ)」を没収。それが象徴的に「朝廷から常陸国を奪い取る」形となってしまう
- 将門は、側近の興世王(おきよおう)の言葉、
「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム(過去の記録を見るに、一つの国を攻め滅ぼした者の罪は軽くない。まずは坂東(東国)を従えて領有し、しばらく中央(京)や周囲の出方をうかがおう)」
との進言を受け、同年12月11日に下野に出兵 - 続いて同月15日に上野に出兵。19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収める
- 八幡神と菅原道真の霊の神託が降ったことにより、「新皇/新しい天皇」を自称し、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置く
- 朝廷がブチ切れる
- 同じ頃(941年)、瀬戸内海で藤原純友が乱を起こす(藤原北家出身。海賊討伐にあたっていた役人だったがいつの間にか彼自身が海賊を率いて反乱を起こしていた)
- なんでみんな反乱起こすんだよ、と危機を感じた朝廷は、「将門を倒した者を貴族にしてやろう」と喧伝する
- 一番に立ち上がったのが、将門が殺害した国香の子であり将門の従兄弟にあたる平貞盛だった
- 戦が起こった時期が悪く、将門が苦戦→940年3月25日、敵の放った鏑矢が命中し、将門が息を引き取る
(後に、将門を破った平貞盛の四男・維衡(これひら)が「伊勢平氏の祖」となる) - 朝廷のさらなる追討により将門の弟や近親者が皆殺しにされる。将門の首は平安京にて晒し首となる
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれました。

俵藤太(星3アーチャー)
平貞盛と共に将門を討った武将の一人、藤原秀郷(ひでさと)の別名。
三上山を巻く大百足を矢で射抜いて退治した彼は、竜神から「減らない米俵」「尽きない絹」「出続ける鍋」などの宝物を授かり、「俵藤太」と呼ばれるようになったと言われているよ。

数々の将門伝説
時代が下がるにつれて、多くの「将門伝説」が生まれました。
将門はそうした文学、文芸化の広がりと共に民衆の支持を受けた武将であるといえるでしょう。
・将門を怨霊と誇張し、「日本三大怨霊」の一角とした伝説(日本三大怨霊:菅原道真、平将門、崇徳天皇)
・京都で斬られた将門の首が夜空を飛んで東国(故郷)に帰ろうとしたという伝説
言い伝えでは、討ち取られた将門の首は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても腐らず、眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだった。
「首をつないでもう一戦しよう。斬られた私の胴(五体)はどこにある」
という声が毎夜響き、恐怖しない者はいなかった。
ある時、歌人の藤六左近がそれを見て、
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて(将門はこめかみを斬られたのだ。俵藤太の計略によって)」
と詠んだら(こめかみ(米)と俵をかけたダジャレ)、将門の首は笑い(笑いの沸点が低かった?)、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいった、あるいはたちまちのうちに朽ち果てた伝えられている。
(それゆえ京都には将門の首塚がない)
この際、関東を目指して飛び去った首は途中で力尽きて地上に落下したとも言われ、各地に御首神社、首塚伝承が生まれる。
最も著名なのが東京都千代田区大手町にある将門塚で、この首塚には移転などの計画があると事故が起こり、現在でも畏怖の念を集めている。
そして、昭和のおわりに東京の霊的守護をテーマにした荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。
・将門の身体は鉄のように硬かったが、こめかみだけが肉身であるという伝説
・将門には影武者がおり、その7人のうち6人には影がないという伝説
・将門が関東に建設しようとした王城の伝説
・将門の荒ぶる魂を鎮めるために各地に建てられた神社の伝説
・滝夜叉姫の伝説(平将門の娘とされる架空の人物。父の死後、妖術で家の再興を図るが、失敗した)
・将門の調伏伝説
千葉県の成田山新勝寺は、将門を討伐するため朝廷の命によって建てられ、調伏の祈禱を行った寺だった。
このため、将門とその家来の子孫、近隣に住んでいた民衆たちは、成田山新勝寺へ詣でると平将門命の加護を受けることができなくなると信じ、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。

915年、十和田湖噴火による火山灰や異常気象、為政者が起こした人災によって、当時の東国の民衆は相当疲弊していた。
そのため、「悪い権力者に反旗を翻してくれた将門様はいい人!」と民衆の支持を得ていたとも言われているんだ。
もちろん西国人からみれば謀反人なんだけど…東西で評価がわかれるということだね。
おしまい。
