藤原家は、669年、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった中臣鎌足がその功績を称えられ、死の直前に天智天皇からその姓を与えられて興った家です。
鎌足に与えられた藤原の姓はあくまで鎌足一代のものであるという説がありますが、もともと中臣家は朝廷の神事を担当する豪族でもあったので、698年、文武天皇の時代に、
「藤原の姓の継承者は不比等(鎌足の次男)に限定し、それ以外の者は元の中臣姓に戻す」
となった経緯がありました。
つまり、実質、鎌足の次男である藤原不比等が始祖ということになるのかもしれません(鎌足の長男・定恵は出家。以降、藤原氏は多くの仏僧を輩出している)。

その後、藤原不比等の子である四兄弟がそれぞれ四家を創設しまして、
- 藤原南家(長男・藤原武智麻呂)
- 藤原北家(次男・藤原房前)
- 藤原式家(三男・藤原宇合)
- 藤原京家(四男・藤原麻呂)
まあ737年に天然痘の大流行でこの四兄弟は相次いで病死するんですけども。
しかしその四兄弟の子供たちは生きていて、平安時代になると、このうちの北家が皇室と姻戚関係を結んで摂政・関白をほぼ独占し、臣下として最高の家格を保つようになりました。
藤原家出来事表(注意:長いよ!)
| 38代・天智天皇/668年~671年 いわゆる中大兄皇子。20才の時に中臣鎌足と共に乙巳の変を起こし蘇我氏を倒す ★669年・中臣鎌足が藤原姓を賜る |
| 39代・弘文天皇/671年~672年 天智天皇の子。乱により自害。 |
| 40代・天武天皇/673年~686年 天智天皇の弟。「古事記」と「日本書記」を作らせる |
| 41代・持統天皇/690年~697年 4回目・3人目の女帝。天智天皇の娘で、天武天皇の妃 |
| 42代・文武天皇/697年~707年 天武天皇と持統天皇の子の子(孫)。15歳で即位し、25歳で崩御する ★697年、藤原不比等が娘・宮子を文武天皇の妻にする(→藤原氏の台頭) |
| 43代・元明天皇/707年~715年 5回目・4人目の女帝。孫(首皇子)が成長するまでの中継ぎとして即位した文武天皇の母 |
| 44代・元正天皇/715年~724年 6回目・5人目の女帝。甥(首皇子)が成長するまでの中継ぎとして即位した文武天皇の姉 ★716年、藤原不比等が娘・光明子(藤原宮子の異母妹)を首皇子(藤原宮子が生んだ皇子)の妻にする |
| 45代・聖武天皇/724年~749年 文武天皇の子。24歳でようやく即位 ★729年・「長屋王の変」 藤原不比等の四人の子供が共謀して謀反の疑いありと喧伝し長屋王を自殺に追い込む ★737年・天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。それを受けて橘諸兄、玄昉、吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇后(光明子)の信任を得た藤原仲麻呂(南家)の台頭により抑えられる |
| 46代・孝謙天皇/749年~758年 7回目・6人目の女帝。聖武天皇の娘で、初の女性皇太子となる ★この時、実権は母の光明皇太后とその従兄である藤原仲麻呂が主導。仲麻呂は朝廷から「恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、太政大臣になる ★757年・「橘奈良麻呂の乱」 藤原仲麻呂の暗殺+孝謙天皇の廃立を企てた橘奈良麻呂(橘諸兄の子)を排除 |
| 47代・淳仁天皇/758年~764年 天武天皇の子の子(孫) |
| 48代・称徳天皇/764年~770年 8回目・6人目の女帝。孝謙天皇が重祚。道鏡という僧を寵愛し、政局を混乱させた ★764年・藤原仲麻呂(恵美押勝)、道鏡の排除を訴えて挙兵し敗死 ★769年・「宇佐八幡神託事件」(藤原百川)(式家) 道鏡排斥運動の中心人物として活躍し、藤原家の勢力回復を目指した |

仲麻呂の失脚後も、重祚した称徳天皇(孝謙上皇)は引き続き藤原家を採用して昇進させたよ。
皇室は藤原氏の援助と支持を必要としていたし、かつて天智天皇が書いた「鎌足・不比等の子孫で明き浄き心を持ち朝廷に奉仕するものは必ず取り立て、その子孫を絶やさない」という書を守ろうとしたからと言われているんだ。
| 49代・光仁天皇/770年~781年 天智天皇の孫。62歳で即位し、70歳になっても元気だったが、桓武天皇に譲位し、その年の暮れに亡くなった |
| 50代・桓武天皇/781年~806年 光仁天皇の第1皇子で後の桓武平氏(平家)の祖 |
| 51代・平城天皇/806年~809年 桓武天皇の第1皇子。財政難を立て直したが妻の母を寵愛する。病弱だったため弟に皇位を譲る |
| 52代・嵯峨天皇/809年~823年 坂上田村麻呂に助けられて諸々のちょっかいを制圧する ★810年・「薬子の変」(藤原冬嗣) 藤原式家の薬子と仲成が、寵愛を受けていた前天皇の重祚を目論んで失敗。これにより式家は没落し、再度北家が勢力を伸ばしていく |
| 53代・淳和天皇/823年~833年 桓武天皇の子(平城天皇・嵯峨天皇とは腹違い) |
| 54代・仁明天皇/833年~850年 嵯峨天皇の子 |
| 55代・文徳天皇/850年~858年 仁明天皇の子 ★842年・「承和の変」(藤原良房) 伴健岑と橘逸勢らを謀反を企てた罪で流罪に。結果、良房が大納言となり、その甥が皇太子となる |
| 56代・清和天皇/858年~876年 文徳天皇の子。母が藤原良房の娘なので、9歳で即位した後、★藤原良房が政治の実権を握る(非皇族によるはじめての摂政) ★866年・「応天門の変」(藤原良房) 応天門の火災をめぐって大納言の伴善男、紀夏井らが処罰される。これをきっかけに藤原氏による摂関政治が始まる |
| 57代・陽成天皇/876年~884年 清和天皇の子。9歳で即位し、やはり藤原氏が摂政となる。性格に難があり、16歳で皇位を廃される |
| 58代・光孝天皇/884年~887年 仁明天皇の第3皇子。54歳で即位し、3年ほど後に病で崩御する |
| 59代・宇多天皇/887年~897年 光孝天皇の第7皇子。これ以上の藤原氏の外戚化を防ぐため、菅原道真を抜擢する ★888年・「阿衡の紛議」(藤原基経) 宇多天皇から受け取った詔に憤慨した基経が、約半年間職務を放棄。天皇に譲歩&謝罪させて、その地位を確立した |
| 60代・醍醐天皇/897年~930年 宇多天皇の子。菅原道真を左遷させられ、再度藤原氏の権勢を許してしまう ★901年・「昌泰の変」(菅原道真の左遷)(藤原時平) 当時左大臣だった菅原道真を大宰府へ左遷する |
| 61代・朱雀天皇/930年~946年 醍醐天皇の第11皇子。★藤原忠平が政治を主導する(ちなみに平将門(903~940年)が一時期仕えていた相手が藤原忠平) |
| 62代・村上天皇/946年~967年 朱雀天皇の弟で醍醐天皇の第14皇子。関白を置かず、自ら財政の健全化に努めたことが「天暦の治」と絶賛された |
| 63代・冷泉天皇/967年~969年 村上天皇の第2皇子。ぼーっとした人なのだが、祖父である藤原師輔に推されて即位した |
| 64代・円融天皇/969年~984年 村上天皇の第5皇子。11歳で即位し、★藤原氏が摂政となる ★969年・「安和の変」(藤原実頼) 勢力拡大が予想された源高明を陥れて左遷する |
| 65代・花山天皇/984年~986年 冷泉天皇の子。17歳で即位し、2年後に退位する |
| 66代・一条天皇/986年~1011年 円融天皇の第1皇子。★藤原道長が摂政となり、「一帝二后」を強行された ★999年、藤原道長が、すでに道長の兄の娘と結婚していた一条天皇に、自分の長女をさらに嫁がせる |
| 67代・三条天皇/1011年~1016年 冷泉天皇の第2皇子。「自分の身体の加減がいいと左大臣(道長)の機嫌が悪い」とぼやくほど不仲だったとされる ★1009年、道長が次女を嫁がせる。その後譲位を迫り、5年で退位させた |
| 68代・後一条天皇/1016年~1036年 一条天皇の子で藤原道長の孫。9歳で即位し、道長を得意の絶頂にさせる。29歳で崩御 ★1017年、道長が三女を嫁がせる。また、頼通(長男。後に平等院鳳凰堂を建てた人)を藤原家当主とし、摂政を譲る |
| 69代・後朱雀天皇/1036年~1045年 一条天皇の子で後一条天皇の弟。どうしても政治の実権を取り戻せない ★1021年、道長が四女を嫁がせる |
| 70代・後冷泉天皇/1045年~1068年 後朱雀天皇の子。藤原氏の言いなりで、朝政に関心を示さない |
| 71代・後三条天皇/1068年~1072年 後朱雀天皇の子で後冷泉天皇の異母弟。★藤原氏を外戚としない170年ぶりの天皇で、そのしがらみのない親政は「延久の善政」と呼ばれた |
| 72代・白河天皇/1072年~1086年 後三条天皇の子。退位後も上皇として40年も実権を握った院政の確立者 ★天皇に嫁がせた娘が男児を生まず、また、上皇が力をふるい続けるので、次第に藤原氏の出る幕がなくなっていく |
なんでこんなに強いのか
藤原家が台頭したのは、主に以下の二つの手法を徹底したからでした。
- 娘を嫁がせ、生まれた皇子を天皇とする(摂関政治)
- 他の有力な貴族を排斥する(他氏排斥運動)

有効的ではあるけど嫌な家訓だよね…
それを徹底していった結果、官人の大半が藤原氏の後裔で占められるようになり、それらの家系は家職をもった公家の家として続いていくこととなりました。
代表的な家系としては、中御門流、閑院流、勧修寺流、日野流など。
一部は地方に土着して武士化し、特に藤原清衡は奥羽において勢力を拡大して、「奥州藤原氏」と呼ばれるようになりました。
土地の確保によっても台頭する藤原家→武士の時代へ
↓流れはこう!↓
- 財政難に陥った政府が、有力農民を直接指定して土地を耕作させ、そこからの税を財源とする「直営方式」に変えた(税収の管理が国司(現場)の判断と裁量に任された)
- 「なら俺も土地を開墾するわ」と地方に下った下級貴族や土着の豪族、有力農民らが私的な利益追求を図るようになり、その流れがさらに加速する(私有地の拡大による律令制の崩壊)
- 国司に税を徴収されないよう、私領化した土地を中央の有力貴族や社寺に寄進し(=「荘園」として差し上げる代わりに税を免除してもらう)、力を蓄える者が増えはじめる(寄進地系荘園)
- その荘園を集積して最大勢力にのし上がったのが藤原一族
- 宇多天皇や菅原道真はこの「私有地→荘園」をやめさせるため反荘園派に回らざるを得なかったが、結局は止めきれなかった
- 各地の開発領主がそれぞれ武装勢力に成長し、独自の地方権力者として振る舞うようになる(武力を以て自領を守るようになる)。
939年に関東で乱を起こした平将門、瀬戸内海で暴れた藤原純友などが、武士団の誕生、武家政治の走りとなった - 貴族だけでは武士の反乱を抑えられなくなったことで貴族社会が動揺し始め、これ以後貴族は武士たちを侍として奉仕させるようになる
こうして武士は貴族社会の中での地位を向上させていったのでした。

地位の高い貴族の荘園には、
・不輸(ふゆ)の権→朝廷からの税を免除される権利
・不入(ふにゅう)の権→農地の調査を行う役人の出入りを禁止する権利
という特権があったんだ。
つまり、「威張り散らす国司たちも高位の貴族の荘園には立ち入りできない」「だから高位貴族に寄進すれば安心安全だ」となったってわけ
いつしか藤原家は鳴りを潜めた…
一時期は栄華を誇った藤原家ですが、平安後期になり、上皇による院政が始まると(1086年~)、その影響力が低下します。
(まあこれは他の家がこれから新たに摂関家を目指せなくなったということなので、結果的に藤原家が摂関の地位を占めることにもつながったわけですが)
同時に、源氏や平氏が樹立した武家政権が誕生し、公家が「京都の朝廷」限定の世界を保つにすぎない存在となったことで、歴史の教科書に藤原氏が登場する頻度が減っていくこととなりました。
| ・平安時代末期以降 公家では称号、武家では名字と言われる「家名」が一般的となり、「藤原」の氏で呼ばれる人物が少なくなっていく |
| ・鎌倉時代以降 姓ではなく「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」(五摂家)などの「苗字」に相当する家名を名のり、公式な文書以外で「藤原」を名乗るのをやめた (しかし朝廷における比率、地方に散った後裔の数は圧倒的であり、日本においては皇別(源平など)に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系であり続けた) |
| ・戦国時代 陸奥国の伊達氏・津軽氏、肥前国の龍造寺氏・鍋島氏・肥前有馬氏など、藤原氏の後裔を称する戦国大名が多く勢力を拡大していく |
| ・江戸時代 朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家、清華家、大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏となった。 徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流なので、皇別(皇胤)と藤原氏、二つの血流が支配階級をほぼ独占するという状態であった |
| ・近世 江戸幕府を支えた譜代大名にも藤原氏を称する家がいくつかある(井伊氏・本多氏・大久保氏・内藤氏・戸田氏・田沼氏など) 江戸時代末には、堂上公家である5摂家・9清華家・3大臣家・66羽林家・28名家・26半家(計137家)のうち、5摂家・7清華家・2大臣家・55羽林家・25名家・2半家(計96家)が藤原氏出身だった |
| ・近代以降 内閣制度成立まで政府首班を務めた三条実美、維新の三傑である西郷隆盛と大久保利通などが「藤原朝臣」を称していた。 公家・大名諸侯が列せられた身分である華族の多くは藤原氏の一族であり、これら藤原氏後裔の華族は多くの政治家などを輩出した。 (内閣総理大臣を2度務め、実質的な首相選定者であった元老となる西園寺公望、3度首相となった近衛文麿など) (近衛文麿が太平洋戦争敗戦責任を負って東京裁判被告となることを回避自殺したことで、以後日本における藤原氏の影響力は激減し今日に至っている) |

藤原氏は多くの地方官人を輩出したため、軍事貴族となる家も多く生まれたよ。
中でも藤原利仁(としひと)や藤原秀郷(ひでさと/俵藤太)の後裔を称する武家は特に多く、これらの武家が江戸時代に大名として残り、明治時代に華族となったんだ。
嫡流で上品な貴族の藤原氏もいれば勇敢な武士の藤原氏もいて、農民の藤原氏も、商人や職人の藤原氏も、神主の藤原氏もいる。
藤原氏の後裔で構成される親睦団体「藤裔会」は、今でも年1回、秋頃に春日大社で会合を開いているそうだよ。
苗字に「藤」がついてれば藤原氏?
「藤」の字が入った名字は藤原氏の末裔であるとされることが多い反面、
- 藤原氏と氏神を共有しない
- 地方への赴任事情が不明
- 系図上の親子関係に疑問が残る(養子じゃね?みたいなの)
という事例も多く、特に「佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤」などはその多くが「藤原氏とは無関係だろ」と見られているとか。

とはいえ、藤原氏の流れをくむとされる十六藤(じゅうろくとう) は有名で、
「佐藤」「伊藤」「加藤」「斎藤」「後藤」「近藤」「遠藤」「工藤」「安藤」「内藤」「須藤」「武藤」「進藤」「新藤」「神藤」「春藤」
などがあるよ。
もちろん全員が全員藤原不比等の子孫ではないだろうけどね。
おしまい。
