桓武天皇は737~806年、45歳で即位した第50代天皇。
色々あって平城京→長岡京→平安京と次々と遷都してました。よくそんな金あったね?
しかして、桓武天皇の二大事業である「造作(都づくり)」と「軍事(蝦夷征服)」は費用と民衆への負担が莫大だったため、「やめるか、続けるか」の選択を迫られることに。
結局「やめる」を選択し(805年・徳政論争)、平安京は未完成、その結果として民衆の負担が軽くなって、まあ「徳政」を敷いた人物、いうイメージになりましたとさ。
あとお母さんが百済系の人でした。
| 49代・光仁天皇/770年~781年 天智天皇の孫。急遽指名され62歳で即位したが、70歳になっても元気だった |
| 50代・桓武天皇/781年~806年 光仁天皇の第1皇子。色々あって平安京に遷都。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命 |
| 51代・平城天皇/806年~809年 桓武天皇の第1皇子。財政難を立て直したが妻の母を寵愛する。病弱だったため弟に皇位を譲る |
| 52代・嵯峨天皇/809年~823年 桓武天皇の子で平城天皇の弟。坂上田村麻呂に助けられて諸々のちょっかいを制圧する |
| 53代・淳和天皇/823年~833年 桓武天皇の子(平城天皇・嵯峨天皇とは腹違い) |
特筆すべきは、「後の桓武平氏(平家)の祖である」ということ!
平氏って?
後に、藤原家かよってくらい「平家にあらずんば人にあらず!」とまあまあイキり倒した一族ですよ。
~即位までのあれこれ~
- 当初は官僚としての出世を望まれ、大学頭や侍従に任じられていた
- 34歳の時、称徳天皇が崩御。それによって父の白壁王がいきなり第49代目天皇になった
- 父王の即位後、親王になり中務卿に任じられたが(当時36歳)、生母の出自が低かったため、立太子まではいかなかった
- しかし、政争により他の候補者が廃されたため、773年に皇太子となった
- 781年4月30日、父から譲位されて天皇にクラスチェンジ→翌日5月1日には同母弟の早良(さわら)親王を皇太子と定めた
この後、諸々のアレで早良親王を失った桓武天皇は、785年12月31日に安殿親王(自分の第1子)を皇太子とします。
在位中の806年4月9日に70歳で崩御した後は、予定通り安殿親王が第51代平城天皇として即位しました。

色々やった
桓武天皇は、
- 青年期に官僚としての教育を受けていた
- 壮年期に達してからの即位だった
ことにより、非常に様々な大規模政策を(いい意味でも悪い意味でも)実行し倒しました。
①意地遷都!
- 称徳天皇のせいで肥大化した奈良仏教各寺の影響力を断ち切りたかったから遷都した
- 皇統が天武系から天智系に移ったので、新たに都を作りたくなったから遷都した
- 即位後、周囲に「なんであんなポッと出の男が天皇になるんだ!」と言われ続けるのが辛かったから、守旧派から離れたくて遷都した
- 祟りから逃れたかったから遷都した
…祟り?
- 785年、長岡の造京責任者(藤原種継)射殺事件において、早良親王(桓武天皇の実弟)が検挙され、廃太子の上、淡路へ島流しとなる
- 無罪を主張した早良親王がハンガーストライキで衰弱死
- 桓武天皇の周囲で病死・急逝が頻発する+天然痘による多数の死者+天候不順による凶作+長岡京に二度の大洪水(不吉のオンパレード)
- 占ってもらったら早良親王の祟りと出る
- すぐさま早良親王の墓地を整え霊を慰める
- 効果なし
- 794年、早良親王の怨霊から逃れるため、長岡京に移ってわずか10年で平安京へ遷都した
…というわけ。

疑心暗鬼になる気持ちわかるよ…
②蝦夷征伐! ~坂上田村麻呂~
- 蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、三度にわたって蝦夷征討を敢行
- 一度目→789年、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とする最初の軍を派遣→惨敗
- 二度目→794年、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍、坂上田村麻呂を副将軍として実行→これも失敗
- 三度目→797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢、801年に遠征→802年に蝦夷の脅威は減退、803年にほぼ平定される

しかしその後、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、朝廷の軍事力は下落の一途をたどることになるんだ
③仏教!
最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしました。
④血筋残した!
- 皇后(藤原氏)との間に生まれた安殿親王が第51代平城天皇に、神野親王が第52代嵯峨天皇に
- 夫人(藤原氏)との間に生まれた大伴親王が第53代淳和天皇に
- 夫人(多治比)との間に生まれた葛原親王が後の桓武平氏の祖に

まあその他にも非常に多くの皇子女を残したよ

番外☆桓武天皇のお母さん愛について
桓武天皇のお母さん(高野新笠)は百済系の氏族でした(武寧王を祖とする百済系渡来氏族)。
ですが、百済の氏族であって日本の貴族ではなかったため、つまりお母さんの地位が低かったために、彼のお父さんがいきなり天皇として即位した後も、山部親王(桓武天皇)は立太子できませんでした。
やがて事情が変わって山部親王(桓武天皇)が皇太子となるのですが、それでもお母さんは皇后にはなれません。
それゆえ、桓武天皇は即位後、
- 母・新笠を皇太夫人とする
- 従兄弟を異例の出世街道に乗せる
- 「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進める
という依怙贔屓愛を炸裂させたのでした。

平成13年(2001年)、天皇明仁(桓武天皇の男系子孫)が、
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であるとされていることに韓国とのゆかりを感じています。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」
と発言したことで、「皇室は韓国人の血筋を引いている!」「皇室百済起源論!」「日王が秘められた事実を暴露!」と韓国中が大騒ぎしたよ
そうじゃねえから
おしまい。

