卑弥呼 ~占い。英語で言うとパワー~

歴史上の人物

 

 

いつの人?

 

弥生時代、米とか作りはじめた時代の人

西暦170~248年頃の話なので、「だいたい2~3世紀の人」と覚えるとよいでしょう。

 

世紀の数字は「100円玉が何枚必要か」で覚えるとわかりやすいよ。
西暦170年だと100円玉が2枚必要だから2世紀。
西暦248年だと100円玉が3枚必要だから3世紀。
西暦1600年だと16枚必要だから16世紀。
西暦2025年だと21枚必要だから21世紀となる。

 

 

時代背景としてはこう!

 

①大陸から稲作が伝わる
②それまで狩りや漁をして暮らしていた人々が低地に定住するようになる
③村ができ、稲作の知識量や米の収穫量によって、貧富の差、身分の差が生まれる
④稲作の効率化、食いはぐれた者による米の強奪を防ぐため、いくつかの村がまとまって小さな国ができる
⑤それぞれの国の支配者が「豪族」と呼ばれる
⑥この豪族の頂点に立ったのが卑弥呼

 

なぜ卑弥呼が選ばれたのか?

 

当時の日本は何をするにも占いの結果を見て決めていたため

 

卜占(ぼくせん)→「亀の甲羅や鹿などの獣の骨を焼き、熱でできた裂け目を見て、田植えの時期や収穫の日取りなどを判断していた」らしく。

卑弥呼はこの手のアレが達者だったため、多くの国の豪族たちが、満場一致で彼女の「占いの力」を王とした、というわけです。

 

 

↓ちょっと横道にそれるがちなみに天皇家の系譜

 

初代・神武天皇 前660年~前585年
~~~
第12代・景行天皇 71年~130年
・ヤマトタケルの父
第13代・成務天皇 131年~190年
・ヤマトタケルの異母弟
第14代・仲哀天皇 192年~200年
・ヤマトタケルの第2子
中継ぎ・神功皇后 201年~269年
・ヤマトタケルの第2子の妻。
239年、邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る ←ココ!
第15代・応神天皇 270年~310年
・仲哀天皇と神功皇后の子
第16代・仁德天皇 313年~399年
・確実に実在が確認されている天皇

 

皇室における初代以降の各天皇の「多分こんな感じ」という構想は割とカチッと決まっており、その中で特に言及されることもないため、基本的に卑弥呼は皇室とは無関係なはず。

「古事記や日本書紀に彼女の名前が登場しない→日本国内では別の名前で呼ばれていたのではないか→天照大神では?」と言われることもあるようですが、さすがに荒唐無稽が過ぎる。

しいて言えば、神話寄りの存在である神功皇后(14代天皇の奥さん)がモデルになったのでは? と言われないでもないようです。

 

 

 

何をした人?

 

「王であり巫女であり祭司である」という「政治と宗教を融合した統治スタイル」で周辺の政情を安定させたリーダー。

 

中国の「魏志倭人伝」によるとこう!

 

「その国、もとまた男子をもって王となす」
→倭国はもとは男性を王としていた
「住(とど)まること七、八十年、倭国乱れ、相攻(あいこう)伐して年を経たり」
→だが、70~80年もの間、昭和のヤンキーくらい抗争していた(倭国大乱)

「乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす」
→そこで諸国は共に一人の女性を立てて王とした

「名づけて卑弥呼と曰(い)う」
→その名を卑弥呼という

 

ちなみに邪馬台国の場所は今もってわかっていません。

理由は魏志倭人伝における記述が曖昧だったから。

まあ大昔かつ他国の史書なのでしゃーなし。

 

で、190年頃、邪馬台国の女王になり、

239年、中国のに外交官を派遣(朝貢)。

魏の明帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚を与えられました。

 

に使いを送ったのは、

卑弥呼に対抗していた「狗奴国(くなこく)の王、卑弥弓呼(ひみくこ)」が、中国のと関係を結んでいたからだと考えられています。

どちら共、大国である中国のお墨付きが欲しかったというわけですね。

 

ところで、中国は「魏」「呉」「蜀」の三国で争ってたわけだけど、最終的にどこが勝ったの?
→「晋」


…どこだよ!!!

具体的には、魏が蜀を滅ぼし、その後魏の権力を奪った司馬氏の晋が、最後に呉を滅ぼしたそうです

 

 

 

 

どんな人?

 

魏志倭人伝によるとこう!

 

「鬼道に仕え、能く衆を惑わす」
→シャーマンキングか呪術廻戦かのような霊力を用い、民を導き

「年すでに長大なるも、夫婿(ふせい)なく」
→すでに年を取っているが夫はなく

「男弟ありて国を治むを佐(たす)く」
→弟が一人いて、政治を補佐していた
「王となりよし以来、見ることある者少なし」
→女王となってからは彼女の姿を見る者は少なく(神秘の保持?)
「婢(ひ)千人をもって自ら侍(じ)せしめ」
→召使の女は千人(権威の誇示?)
「ただ男子一人ありて飲食を給し、辞を伝えて出入りす」
→ただ一人の男が食事の世話をし、女王の言葉を伝えるために宮殿に出入りした

 

卑弥呼は天岩戸に引きこもった天照大神かのように姿を見せず、代わりに補佐役である彼女の弟が民に広報していたようですね。

で、248年に死去しますが、死因は不明。墓の場所も不明。

この頃はまだ埋葬のスペシャル世代☆古墳時代に入ってないので、「人馬の代わりに埴輪を埋める」という文化がなく、実際の人間を埋めたそうです。

 

「大いに冢(つか)を作る」
→まあ墳丘を作った

「径(けい)百余歩、殉葬する者奴婢百余人」
→その直径は百余歩、殉葬された奴隷は百余人だった

「更に男王立てしも国中服さず」
→卑弥呼の死後、男の王を立てたが、国中が従わず
「更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す」
→さらに殺し合って千余人が死んだ

 

男の王を立てたが国中が従わず、卑弥呼の宗女である13歳の「壱与を立てたら国が鎮定した、とあります。当時もかわいいが正義だったのですね。

ちなみに卑弥呼が逝去した時と壱与が即位した時、現地でというか日本のどこかで皆既日食が起こったそうです。太陽と月も空気を読んだんですかね。

 

265年、中国では魏が滅んで西晋が興ったため、壱与が266年に船を送った貿易相手は晋ということになります。

卑弥呼と壱与、邪馬台国についてわかっていることはここまでです。

 

 

これら邪馬台国と卑弥呼に関する記録はすべて中国のものであり、日本バージョンは存在しません。

なぜなら、もうちょっと後の時代に渡来人が日本に漢字を伝えるまで、日本には文字体系というものが存在しなかったから。

そして、中国においても西晋=265~316年/東晋=317~420年の時期は忙しかったらしく、日本に関する記録がスパッと途絶えてしまいます。

ゆえに、西暦266年から(中国史において日本に関する記述が復活する)413年までの期間を「空白の150年」と呼ぶようになりました。

まあ大体のことはわかっているんですけどね。

 

空白の150年

 

 

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