古代日本の有名人、それは神武天皇、そして卑弥呼
- 神武天皇 天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)によって生まれた神の子孫。世が世ならっていうか絶賛続く日本皇室の祖(紀元前660年2月11日建国)
- 卑弥呼 弥生時代、日本人が米とか作りはじめた時代の、天皇家とは違う場所(邪馬台国)を治めた巫女王
彼女が治めていた「邪馬台国」の場所は、九州説や近畿説があってはっきりしていません。
また、卑弥呼が存在した時期は西暦170~248年頃なので、「だいたい2~3世紀の人」と覚えるとよいでしょう。

世紀の数字は「100円玉が何枚必要か」で覚えるとわかりやすいよ
西暦170年は100円玉が2枚必要だから2世紀
西暦248年は100円玉が3枚必要だから3世紀
西暦1600年は16枚必要だから16世紀
西暦2025年は21枚必要だから21世紀となるんだ
卑弥呼が即位した背景
時代背景としてはこう!
- 陸から稲作が伝わる
- それまで狩りや漁をして暮らしていた人々が低地に定住するようになる
- 村ができ、稲作の知識量や米の収穫量によって、貧富の差、身分の差が生まれる
- 稲作の効率化や、食いはぐれた者による米の強奪を防ぐため、いくつかの村がまとまって小さな国ができる
- それぞれの国の支配者が「豪族」と呼ばれる
- この豪族の頂点に立ったのが卑弥呼
なぜそこら辺の男性ではなく卑弥呼が選ばれたのかというと、当時の日本は何をするにもまず占いをし、その結果を見て動いていたからです。
- 骨卜(こつぼく)→亀の甲羅や鹿などの獣の骨を焼き、熱でできた裂け目を読み解く占い
- それによって、年中行事の吉兆、田植え、収穫、遠征の可否、国家事、個人事などの遂行の可否を判断をしていた
卑弥呼はこの手のアレが達者だったため、多くの国々の豪族たちが満場一致で彼女の「占いの力」を王とした、というわけです。

「王であり巫女であり祭司である」という「政治と宗教を融合した統治スタイル」で周辺の政情を安定させた傑物
中国の「魏志倭人伝」によるとこう!
- 「その国、もとまた男子をもって王となす」→倭国(日本)はもとは男性を王としていた
- 「住(とど)まること七、八十年、倭国乱れ、相攻(あいこう)伐して年を経たり」→だが、70~80年もの間、昭和のヤンキーくらい抗争していた(倭国大乱)
- 「乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす」→そこで諸国は共に一人の女性を立てて王とした
- 「名づけて卑弥呼と曰(い)う」→その名を卑弥呼という
190年頃、多分20歳くらいの時に邪馬台国の女王になったようです。
わりと細かい描写も残っています。
- 「鬼道に仕え、能く衆を惑わす」→シャーマンキングか呪術廻戦かのような霊力を用い、民を導く
- 「年すでに長大なるも、夫婿(ふせい)なく」→すでに年を取っているが夫はなく
- 「男弟ありて国を治むを佐(たす)く」→弟が一人いて、政治を補佐していた
- 「王となりよし以来、見ることある者少なし」→女王となってからは彼女の姿を見る者は少なく(神秘の保持?)
- 「婢(ひ)千人をもって自ら侍(じ)せしめ」→召使の女は千人(権威の誇示?)
- 「ただ男子一人ありて飲食を給し、辞を伝えて出入りす」→ただ一人の男が食事の世話をし、女王の言葉を伝えるために宮殿に出入りした
「年すでに長大なるも夫婿なく」とかは余計なお世話ですけど、卑弥呼は天岩戸に引きこもった天照大神かのように姿を見せず、代わりに補佐役である弟に広報を任せていたようです。

ソツなく外交
239年、中国の魏に外交官を派遣し、魏の明帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚を与えられています。
なんで魏に使いを送ったかってーと、当時、「邪馬台国の卑弥呼」に対抗していた「狗奴国(くなこく。多分九州らへん)の王、卑弥弓呼(ひみくこ)」が、中国の呉と関係を結んでいたからだと考えられています。
どちら共、大国である中国のお墨付きが欲しかったわけですね。
当時中国は「魏」「呉」「蜀」の三国が争っていましたが、最終的には「晋」が勝ちました。
…ん???
具体的には、「魏」が「蜀」を滅ぼし、その後「魏」の権力を奪った司馬氏の「晋」が、最後に「呉」を滅ぼしました。
…は???

ちなみに「三国志」や「三国正史」は史実だけど、劉備や諸葛孔明が出てくる「三国志演義」は、明の時代に完成した脚色されし歴史フィクションだよ
そして死去
なんやかんやで248年に死去しますが、死因は不明。墓の場所も不明。
この頃はまだ埋葬のスペシャル世代☆古墳時代に入ってないので、「人馬の代わりに埴輪を埋める」という文化がなく、実際の人間を埋めたそうです。
- 「大いに冢(つか)を作る」→まあ墳丘を作った
- 「径(けい)百余歩、殉葬する者奴婢百余人」→その直径は百余歩、殉葬された奴隷は百余人だった
- 「更に男王立てしも国中服さず」→卑弥呼の死後、男の王を立てたが、国中が従わず
- 「更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す」→さらに殺し合って千余人が死んだ

なんでここまで詳細がわかってるのに肝心の墓の場所や邪馬台国の位置が失伝しているのか…
男の王を立てたが国中が従わず、卑弥呼の宗女である13歳の「壱与(いよ)」を立てたら国が鎮定した、とあります。当時からかわいいが正義だったのですね。
ちなみに卑弥呼が逝去した時と壱与が即位した時、現地で、というか日本のどこかで皆既日食が起こったそうですが…。
太陽と月も空気を読んだんでしょうね。
そんで、265年、中国では魏が滅んで西晋が興ったため、壱与が266年に船を送った貿易相手は晋ということになりまして。
卑弥呼と壱与、邪馬台国についてわかっていることはここまでとなります。
これら邪馬台国と卑弥呼に関する記録はすべて中国のものであり、日本バージョンは存在しません。
なぜなら、もうちょっと後に渡来人が日本に文字を伝えるまで、日本には文字体系というものが存在しなかったからです。
そして、中国においても西晋=265~316年/東晋=317~420年の時期は忙しかったようで、日本に関する記録がスパッときれいに途絶えます。
ゆえに、西暦266年から(中国史において日本に関する記述が復活する)413年までの期間を「空白の150年」と呼ぶようになりました。
まあ大体のことはわかっているんですけどね。
そんな感じでした。

