菅原道真は平安時代の貴族にして学者にして政治家。
845年8月1日~903年3月26日、父・菅原是善(学者/中流貴族)とその夫人・伴氏(高名な歌人を輩出する家系)との間に生まれた三男で、幼名は「阿呼(あこ)」。
俳句も漢詩もイケるハイスペであり、第59代宇多天皇により抜擢されて、右近衛大将、右大臣を務め、遣唐使を廃止するなど、政治・学問面で活躍しました。
- 忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた
- しかし、天皇家の外戚として君臨したい藤原時平(藤原基経の長男)の策謀(昌泰の変/しょうたいのへん)により大宰府へ左遷され、現地で没する
- 死後は怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられる(あとの二人は平将門と崇徳天皇)
- しかし、後に天満天神として信仰の対象となり、今日では学問の神様として親しまれている
- 墓所は太宰府天満宮(福岡県)
| 56代・清和天皇/858年~876年 文徳天皇の子。母が藤原良房の娘なので、9歳で即位した後、藤原良房が政治の実権を握る |
| 57代・陽成天皇/876年~884年 清和天皇の子。9歳で即位し、やはり藤原氏が摂政となる。性格に難があり、16歳で皇位を廃される |
| 58代・光孝天皇/884年~887年 第54代仁明天皇の第3皇子。54歳で即位し、3年ほど後に病で崩御する |
| 59代・宇多天皇/887年~897年 光孝天皇の第7皇子。これ以上の藤原氏の外戚化を防ぐため菅原道真を抜擢する。遣唐使を廃止し、初の上皇、初の法皇になる |
| 60代・醍醐天皇/897年~930年 宇多天皇の子。菅原道真を左遷させられ、再度藤原氏の権勢を許してしまう |
| 61代・朱雀天皇/930年~946年 醍醐天皇の第11皇子。藤原忠平に政治を主導される。富士山の噴火、地震、平将門の乱、藤原純友の乱などの騒動が頻発し、いずれも菅原道真の祟りと噂された |

菅原氏の先祖は奈良の古代豪族、土師(はじ)氏といって、技術集団として古墳造営や埋葬儀礼に関わっていた氏族なんだ。
第50代桓武天皇(781~806年)の即位後まもなく、道真の曾祖父の時代に居住地の名前を取って菅原姓に改めたんだよ。
道真の子は男女20人以上。この子供たちや子孫たちもまた、学者の家として長く続いていく(子孫に「更級日記」を書いた文学少女がいるよ)。
中世になると、公家の高辻、五条、東坊城、唐橋、清岡、桑原の諸家に分かれ、いずれも学問的な血脈を現代に伝えていくことになるんだ。

菅原道真の軌跡
菅原道真は、端的に言えば、「ただ平凡に生きたかった歌人」でした。
- 845年爆誕
- 幼少より詩歌に才を見せ、わずか11歳で漢詩を詠む
- 18歳で文章生に、23歳で文章得業生に、26歳で官吏登用試験に「中上」の成績で合格、32歳で文章博士に
- 兵部少輔(軍務省)、民部少輔(戸籍・租税・道路省)、式部少輔(朝礼の儀式省)、治部権大輔(外交・他省)を経て、886年、41歳で讃岐守(讃岐国司)に就任(左遷…?)。
そして、890年、45歳の時に任地より帰京し、宇多天皇に抜擢されたのが運の尽きでした。
| 891年(46)、蔵人頭(天皇近臣中の近臣ともいえる職)に補任。辞退したが許されず |
| 894年(49)、遣唐大使に任ぜられたが、唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出(実際、907年に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろした) |
| 895年(50)、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任 |
| 897年(52)、藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真が権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる |
| 899年(54)、右大臣に昇進。引き続き時平と共に左右大臣として肩を並べる |
| 901年(56)、正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、大宰員外帥に左遷される |
| 903年(58)、左遷先にて2月25日死去 |
| …死後20年、贈右大臣、正二位 |
| …死後90年、贈正一位左大臣。贈太政大臣 |
敗因は? →どうしても藤原家が嫌いだった宇多天皇にロックオンされたこと
この頃の天皇家は、第56代清和天皇の時代から、娘を嫁に寄越してくる藤原家に政治の実権を握られていました。
そんな時に、これ以上の藤原氏の外戚化を防ぎたい宇多天皇が抜擢したのが、45歳の菅原道真だったのです(「辞任したが許されなかった」の記述が多いのはこのため)
藤原時平と共に出世していくことは、喜びもあったでしょうが、道真にはむしろ針のむしろであったことでしょう(シャレではない)。
そんな道真の心知らず、宇多天皇は譲位した後も敦仁親王(醍醐天皇)に「引き続き道真を重用して!」と強く求めるなど、藁をつかむ溺者そのものでした(これによって醍醐天皇は父に重用された道真に反発心を抱いてしまう)。
899年、時平が左大臣、道真が右大臣となった時も、(国政の実質的な責任者は左大臣とはいえ)道真は「家が儒家なので…」「家格が低いので…」「出世につけて中傷が増えたので…」となにかにつけて辞退したい旨を上申しましたが、悉く却下されます。
道真の心知らず、譲位して出家した宇多法皇は、逆に「道真のみに政務を委任したいのだが」と打診する始末(もちろん道真は拒絶した)。
翌900年、もう勘弁してとばかりに右近衛大将の辞意を示しましたが、これも却下されたほどでした。
道真・不遇の晩年
↑その結果がこう!↓
| ①901年、56歳で従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、大宰員外帥に左遷される(醍醐天皇が時平の言を受け容れてしまい、実行した) |
| ②宇多上皇はこれを聞いて慌ててとりなそうとしたが、阻まれたり取り次ぎされなかったりで、うまくいかなかった |
| ③そうこうしているうちに、道真の長男である高視を始め子供4人が流刑に処されてしまう(昌泰の変/しょうたいのへん) |
| ④太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、道中の諸国では馬や食さえ給付されなかった(むしろ傷ついた駄馬や損壊した船を与えられた)。監視として左右の兵衛の兵各一名がつけられていたが、反道真派による罠や刺客に襲われ、執拗な嫌がらせを受け続けた |
| ⑤大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん、従者も与えられなかった |
| ⑥住居として宛がわれたのは荒れ放題の廃屋で、侘しい暮らしを強いられた。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していた |
| ⑦大宰府浄妙院で謹慎していたが、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後の903年2月25日に道真も他界した。 享年59。衣食住もままならず、死刑に等しい最期だった |

でも道真と時平ってそれほど険悪だったり対立的だったわけではないらしいんだよね。度々詩や贈り物を交わす関係だったとか。不思議
もう自由!!! 道真・復権への道(死後)
↓そして、その報いがこう!↓
- 906年冬、道真の嫡子である高視が赦免され、大学頭に復帰
- 908年、藤原菅根(ふじわらのすがね/道真が失脚するきっかけを作った貴族)が雷に打たれて卒去
- 909年、左大臣藤原時平が39歳で病死
- 913年、右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死
- 923年、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御。道真を怨霊と見る向きが決定的になったのは実にこの時で、これを受けて道真を従二位大宰員外帥から右大臣に復し、正二位を贈って慰霊した。保明親王の皇子慶頼王、時平の長男保忠も没しており、これも道真の怨霊説を補強した
- 930年、朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出る(清涼殿落雷事件)。それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御する
- これによって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った
- 947年、北野天満宮において神として祀られる
- 一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、993年6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた
- 近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用されている

落雷の時に「くわばらくわばら」と唱えるのは、桑原(滋賀県高島市)が道真の所領だったので、同地の名を唱えれば道真も「うちの所領には雷を落とさないでやろう」と思うと考えられたためだと言われているよ。

道真・その人生
本当に、漫画の登場人物かってくらいハイスペだったのですよ。
お疲れさまでした…(哀惜)。
穏やかな前半生
- 根っからの詩人で、詩が思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみながら周りの物に書き付けていた
- 詩作においては官能的で優美な表現の達人。「どんな大量の黄金も、父祖から代々伝わった学識には遠く及ばない」としている
- 政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていた
- 子煩悩で、子供に関しての詩を多く残している
- 梅ヶ枝餅とカレイと醤油ご飯が好き。お茶も好きで、民衆に喫茶の習慣を広めた
- 乗馬が好きで、通勤、遠出、桜狩りなど、趣味で馬を走らせていた。また、弓の腕もピカイチだった
- 宝剣「天國」、宝刀「神息」、神刀「猫丸」/脇差「小猫丸」、毛抜形太刀(伝天國)、菅公御佩用の御太刀、銀の太刀など様々な太刀を常に佩刀していたという(猫好き…!?)。また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている
- 刀工として古代の名工の一人に数えられている
- 菅原家は代々焼物、神聖文字、占呪法(気・密教・呪術等の秘法)、土木事業、行事、儀式、法律等を祖業とし、道真もこれを受け継いでいる。また、仙人、道士を研究し秘法の実践に余念がなかった
- 「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と評するほど、越州国の風景を気に入っていたという
- 梅の花を好み、桜花の美しさを称え、菊の花を栽培し、薔薇の美しさを妖艶で人を虜にして惑わす妖魔に例えている。これに雪と月を加えて「雪月花」を好んだ
- 「未だかつて邪は正に勝たず(邪なことは結局正義には勝てない)」という思想の持ち主
- 絵に描いたものが飛び出して実体化するという逸話をもつ宮廷絵師巨勢金岡と親交があったとされる
- 出世により学者や貴族などの恨み妬み誹謗中傷が凄まじく、それを切なく思っていた
41歳、讃岐に飛ばされてから
- 道真は詩臣として中央で天皇にお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていたため、「自分が地方官になるの…?」とびっくりした
- 赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑う
- 家族が傍にいない、寂しい…
- それはそれとして、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にした
- 元来の生真面目で清廉な性格から、広く人民を救済するという志を信条とし、善政を執り行うよう努めた
- 888年、讃岐の国で大旱魃が起こり、これを憂いた道真が城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという
- おとぎ話の『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げたという伝説が伝わっている
- 『竹取物語』に至っては道真が作者ではないかという説がある
- 讃岐を去る時、不正腐敗に汚染された官吏たちを一掃できなかったことを悔いていた
56歳、大宰員外帥に左遷されてから
- 左遷の日、藤原時平らは陰陽寮の官人をあつめ、道真とその子孫が絶えるよう、大がかりな呪詛・厭術をさせた(そこまでやる…)。
道真はこれを絶つ術を知っていたため呪いを免れたが、子孫たちはなす術がなかったため、死後、神となった道真が守護し呪詛・厭術を防いでいるという(いい話や…) - 讃岐時代同様、北九州(大宰府/福岡県)の庶民の暮らしぶりについて詩を綴っている。
「人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており、粛清することはもはや不可能」(アカンやん…) - 自分を見に来る野次馬への苦痛、自分の心の狂想、言論封殺のため自由な詩作を禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってること、政敵の時平一派に対する憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶこと、過去の功績の抹殺に対しての痛恨と悲憤を綴っている
- 道真が忌宮神社の大宮司家に立寄り泊まった際、庭にある井戸に自分の姿を映すと、ひどく淋しい気持ちになった。水に映った自分の顔に向かい「都を離れてすでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地に来ることはなし、この井戸で私の顔をみることもあるまい」と筆と紙をとり出し、自画像を描いたという。その後、その井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが伝わっている

家族にまで手を出されたらりゃ祟るよね。
安らかに眠ってほしい…
おしまい。
