中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、626年に生まれ671年に死去した皇族。
田村皇子(後の第34代舒明天皇)と後の第35代皇極天皇(この女帝は重祚して第37代斉明天皇にもなる)の第2皇子であり、後に第38代天智天皇として即位しましたが、その在位期間は668~671年という短さゆえ、まさに「天智天皇…」というより「中大兄皇子!」といった人生でした。
特に有名なのは、
- 蘇我宗家(蝦夷、入鹿親子)を滅ぼした乙巳の変
- 中臣鎌足と共に行った大化の改新
のふたつです。
なにはなくともこれだけは覚えて帰りましょう。

中大兄皇子の「大兄」とは大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」には「2番目の大兄」という意味があるんだ
| 33代・推古天皇 592年~628年 敏達天皇の皇后にして初の女帝。中大兄皇子は彼女の治世である626年生まれ |
| 34代・舒明天皇 629年~641年 敏達天皇の孫で、元・田村皇子。蘇我蝦夷によって聖徳太子の子を抑えて天皇となる |
| 35代・皇極天皇 642年~645年 舒明天皇の皇后。推古天皇に次いで2人目の女帝 |
| 36代・孝徳天皇 645年~654年 皇極天皇の弟。大化の改新の立役者である中大兄皇子と中臣鎌足の熟成期間の天皇 |
| 37代・斉明天皇 655年~661年 孝徳天皇の姉。つまり皇極天皇が62歳で重祚した3回目の女帝 |
| 38代・天智天皇 668年~671年 舒明天皇と皇極/斉明天皇の子。THE 中大兄皇子。白村江の戦いに敗れて防御に全振りする |
| 39代・弘文天皇 671年~672年 天智天皇の子。乱により自害 |
| 40代・天武天皇 673年~686年 天智天皇の弟。天智天皇の子である弘文天皇と彼との間の戦いを壬申の乱という |

乙巳の変(いっしのへん)!
「天皇中心の政治を取り戻す!」とハチャメチャに奮起しました。
①同じ私塾で学んだ学友・蘇我入鹿の実家である「蘇我氏」が、皇族でもないのにハチャメチャにブイブイ言わせよる期間が長すぎた
②あまりにも不条理なんで、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、19歳の時に、中臣鎌足と共に皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)
③翌日、入鹿の父である蘇我蝦夷が自害
④更にその翌日、皇極天皇の同母弟(軽皇子)を第36代孝徳天皇として即位させ、中大兄皇子本人は彼の皇太子となって、様々な改革を行う(大化の改新)
⑤9月、異母兄であり蘇我氏の血を引いている古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を謀反の疑いで処刑(割とえげつないこともやる)
⑥12月、難波長柄豊碕宮へ遷都し、心機一転、頑張る所存
大化の改新!
「乙巳の変」からの「大化の改新」の基本方針は以下の通り!
- これまで天皇家が直接支配していた地、有力な豪族の私有地を、すべて国家のものとする
- 都周辺を「畿内」とし(ほぼ奈良県全域、大阪府全域、京都府南部)、地方には行政官を置き、駅を設けて交通を整備する
- 戸籍をつくり、6歳以上に田地を分け与え、死後その土地を返納させる(班田収授法)
- これまでの税制を廃止し、田に対して新しい形の税を課す
↓「大化の改新」で波及したもの↓
・天皇の政務を補佐する「左大臣」と「右大臣」が誕生
・乙巳の変の時に味方してくれた蘇我氏(宗家筋ではなく、彼らと敵対することを選んだ分家筋の蘇我氏)を右大臣に任命
・中臣鎌足を内臣(天皇の信任の厚い側近。左右大臣に次ぐ地位)に指名。
以後、彼は孝徳天皇と皇太子(中大兄皇子)を篤く補佐
・大化の改新によって土地を取り上げられた豪族たちの不満をそらすため、冠位十二階を冠位十三階に
→649年、さらに冠位十九階に増設(後にさらに増える)
・いつしか中大兄皇子が独断で政治を行うようになり、孝徳天皇との間に深い溝ができる
→最終的に中大兄皇子が群臣らを率いて飛鳥に移動する
・654年、孝徳天皇が崩御。655年、皇極天皇が再び斉明天皇として即位し(重祚/3人目の女帝)、中大兄皇子が引き続き彼女の皇太子を務めることに(なぜか自分が即位しない)
・658年、蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児である有間皇子を謀反の罪にて処刑(やっぱりえげつないことをする)
等々、色々な出来事が起きました。
大陸ともやり合う
左にある半島が不穏でした。
①660年、左の方にある大陸で「唐の力を借りて半島を統一しようと考えた新羅」VS「百済&高句麗」の戦いが勃発。
攻められた百済の将兵が、日本に対し、援軍の要請と「639年に人質として預けた百済の王子(扶余豊璋)を返してくれ」と言ってくる。
悩む日本。「ここで援軍を派遣したら唐を敵に回しちゃうよね」「でも百済が滅びたら日本の朝鮮半島での勢力が失われちゃうし」「何より放っておいたら唐が日本に攻めてこないとも限らないわけで」「どうしよう…」
②661年、結局、滅ぼされた百済再興を救援するために西下する。
しかし8月に斉明天皇が崩御し、皇太子である中大兄皇子が皇太子のまま(即位しないまま)遠征軍の指揮をとる事態に
③3万2000人の軍勢を百済に派遣するも、663年、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦いで唐・新羅軍に大敗
④百済や高句麗の王族や貴族、亡命者たちと共になんとか日本に戻ってくるも、
軍属「おいどうする唐が攻めてきたら!」
民草「これだけ協力したのに負けたのかよ!」
貴族「大化の改新で持っていた土地を取り上げられたり、氏ではなく個人の能力で冠位を決められたり、すげえやる気出ないんですけど?」
結果、国内防備をガチガチに固めたり、貴族に対しては冠位十九階を冠位二十六階にしたり、豪族の私有地を改めて定めたりと、大層忙しいことになった

朝鮮はさ、自分たちの土地は自分たちで守ってほしいよね…
国防意識が爆発。国内の防衛をこれでもかと強化
色々しました。
①今いる場所は攻め込まれたらひとたまりもないとして、667年、近江大津宮(現在の大津市)へ遷都(都が畿内から外に移るのは初めて)
②それまでの十九階だった冠位を二十六階へ拡大し、行政機構の整備を同時進行
③水城や堤防を築き、防人に厳重に守らせる
④668年、中大兄皇子がようやく天智天皇に即位(43歳)。
ちなみにこの年、唐・新羅軍によって高句麗がサクッと攻め滅ぼされる
⑤669年、中臣鎌足が56歳で亡くなる。
亡くなる前日、天智天皇の弟である大海人皇子から「大織冠」と「大臣の位」、そして「藤原の氏」を授けられる
(大織冠=朝廷での最高の地位。彼だけにしか授与されなかったので、後に鎌足の別称となる)
⑥670年、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成し、公地公民制導入の土台を築く
中大兄皇子がようやく即位。
ちなみにその後、唐と新羅は日本に攻めてくることなく、逆に友好を求める使節団を送って寄越してきたのじゃった…。ミラクルセーフ!

そして後継者争いへ
死出の旅立ちは有終の美とはいきませんでした。
①即位した天智天皇は、当初、同母弟の大海人皇子(おおあまのおうじ/後の第40代天武天皇)を皇太弟としたが、気が変わり、671年、自らの第1皇子である大友皇子(おおとものおうじ/後の第39代弘文天皇)を史上初の太政大臣とした(当時の慣例では皇位を継ぐ資格があるのは皇后から生まれた皇子だけであり、身分の低い母を持つ大友皇子を後継者に選定するのはありえないことだった)
②病床の枕元に弟を呼んだ天智天皇は「お前に後を譲る」と宣言するが、ここで頷いたら謀反の罪を着せられるかもしれないと思った大海人皇子は「いえ、出家して修行します!じゃ!」と言って武器をすべて朝廷に差し出し、逃げるように吉野に去る(ナイス危機管理意識)
③大海人皇子が皇太弟を辞退したので、代わりに大友皇子が皇太子に。その年の12月に天智天皇が亡くなる(46歳)
④とはいえ、長年中大兄皇子を支えていた大海人皇子を推す声が後を絶たない。朝廷は「大海人皇子が戻ってくるかもしれない」と大和の要所要所で警戒態勢を敷く事態に
⑤どうやら大友皇子(25歳)が戦争の準備をしていることを知った大海人皇子、攻撃されたらひとたまりもないとこれに対立、壬申の乱がおこる
⑥多くの者が味方し(名を高めたい大伴氏とか、それに呼応した豪族とか)、大海人皇子が勝利。大友皇子は山中で自害する
結局、第38代天智天皇(中大兄皇子)の治世は3年、彼の子である第39代弘文天皇(大友皇子)の治世は1年。
それに対し、乱により即位した第40代天武天皇(大海人皇子)の治世は13年間続きましたとさ。
ところで、中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀の政治史における謎の一つに数え上げられています。
- 中大兄皇子の弟とされる大海人皇子(後の天武天皇)は、実は弟ではなく兄であり、彼に配慮したのではないかという説
- 大化の改新の時に豪族たちから土地を取り上げる政策を打ち出したため、政敵が多く、すぐに天皇になると不満が集中するかもしれないから説
- 天智天皇は元々有力な皇位継承者ではなかったため、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説
しがらみってやつですね。
そして、どうあっても蘇我氏から逃れられない運命でもありました。
- 蘇我入鹿を殺害する乙巳の変でも分家筋の蘇我氏を頼り
- 646年、東国に派遣する国司にも6人の蘇我氏を任命し
- 自身や親族の后妃にも蘇我氏の女性を選び
- 晩年、大友皇子の補佐役にも蘇我氏を選び
と、自身の基盤作りにさえ(伝統的な貴族である)蘇我氏の権力に頼らざるを得ないという悲哀があったようです。
まあこういうのって多分上流階級あるあるなんでしょうね。
おしまい。

