聖武天皇は、701年9月18日生まれ~756年6月8日54歳没の第45代天皇。
中大兄皇子(天智天皇)の弟である天武天皇、の子供である草壁皇子、の息子である文武天皇(軽皇子)、の第1皇子です。
第1皇子なので普通に皇太子として申し分なかったのですが、
- 父が亡くなった時、7歳だった
- 母が皇族ではなかった(藤原不比等の娘、光明子)
という理由で、
- 一旦父方の祖母である天智天皇の皇女が天皇として即位し(元明天皇)
- その後さらに天武天皇の姉が中継ぎの天皇となり(元正天皇)
といった様々な調整の末に、24歳で即位しました(在位期間724年3月3日~749年8月19日)。
幼少名は首皇子(おびとのみこ)。
| 40代・天武天皇/673年~686年 天智天皇の弟 |
| 41代・持統天皇/690年~697年 ↓文武天皇が幼かったため中継ぎとして即位した3人目の女帝。天智天皇の娘で、天武天皇の妃 |
| 42代・文武天皇/697年~707年 天武天皇と持統天皇の子(草壁皇子)の子(軽皇子) |
| 43代・元明天皇/707年~715年 ↓聖武天皇が幼かったため中継ぎとして即位した4人目の女帝。文武天皇の母で、和銅開珎の人 |
| 44代・元正天皇/715年~724年 ↓聖武天皇が幼かったため中継ぎとして即位した5人目の女帝。文武天皇の姉で、未婚の皇女が即位した初の事例 |
| 45代・聖武天皇/724年~749年 文武天皇の子(首皇子)。24歳でようやく即位←この人! |
| 46代・孝謙天皇/749年~758年 聖武天皇の娘で6人目の女帝。実権は母の光明皇太后と藤原仲麻呂が主導 |
| 47代・淳仁天皇/758年~764年 天武天皇の子の子(孫) |
| 48代・称徳天皇/764年~770年 孝謙天皇が重祚。道鏡という僧を寵愛し、政局を混乱させた |
~お母さんのあれこれ~
①720年、藤原不比等(中臣鎌足の次男)が亡くなる
彼は自分の娘である光明子(文武天皇の妻で、聖武天皇の母)の立后(最高位の皇后になること)を願っていた(そうすれば藤原家がもっとブイブイ言わせられるようになるから)
②しかし光明子は藤原一族であって皇族ではないので立后されないのが当時の慣習であり、長屋王(天武天皇の第1皇子である高市皇子の第1子)もそれを許さなかった

長屋王は天武天皇の孫。天武天皇には
①草壁皇子(皇后の子にして皇太子)
②大津皇子(人気ナンバーワンの異母弟)
③高市皇子(最年長)
といった皇子たちがいて、長屋王は③の高市皇子の第1子。他の皇子はすでに死亡しているよ
③当時は「皇親政治」(天皇中心の政治)の真っ只中であり、ゆえに長屋王が政権を担っていた。藤原不比等が亡くなると長屋王はいよいよ政界の主導者となった
④ところが729年「長屋王の変」が起き(「長屋王に謀反の企みあり」と密告する者が出た)、長屋王は自害
これにより光明子は非皇族として初めて立后されることとなった(→光明皇后)
↑これは、不比等の息子であり光明子の異母兄である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が仕組んだものといわれています。
その勢いのまま四兄弟は「藤原四子政権」を樹立するのですが、737年、天然痘により四人揃って無念の病死。
まあ当然の如く「長屋王を自殺に追い込んだ祟りだろ」と噂されましたよね。

朝廷で天然痘の猛威を生き延びたのは、長屋王の弟である鈴鹿王と、橘諸兄だけだったんだ
そのため、その二人はめちゃくちゃ頑張(らざるを得なか)ったよね…

その人生…
①仏教LOVE。
- 737年、天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死する
- 「え怖」ってなって仏教に帰依。全国に国分寺や国分尼寺を建立し、仏教の力で国を治めようとする(→鎮護国家思想)
- 天然痘、干ばつ、洪水、農作物全滅からの大飢饉、極めつけの大地震…マジで国がまとまらない → 奈良に東大寺を建立+奈良の大仏を鋳造(743年に詔を出し、752年に完成)
- 財政大丈夫か?ってなる
②遷都王
- 740年、縁起の悪い平城京を捨て、山背国の恭仁京(くにきょう/京都府)へ遷都
- 摂津の難波京(大阪府)へ遷都
- 近江の紫香楽京(しがらきのみやきょう/滋賀県)へ遷都
- 平城京に戻る(なんなん…)
③声に出して言いたいアレ
国税を増やすため、743年、墾田永年私財法を制定。
しかしこれによって律令制の根幹の一部が崩れることに…(天皇が土地と人々を直接支配するという土台が崩壊した)
墾田永年私財法って?
- 646年「改新の詔(みことのり)」(大化の改新)
→「公地公民制」(すべての土地は国のもの) - 同時に制定されたが701年施行「大宝律令」
→「班田収授法」(6歳以上に田を貸し、税を取る)
→自分のものにならないならやってられない→土地を捨てて流浪する者、逃亡する者が続出→公田が荒廃→税収の減少 - 723年「三世一身法」
→「期限付土地私有」(開墾地を一定期間所有できる→要するにいずれは国に返す) - 743年「墾田永年私財法」←これ!
→「無期限土地保有」(開墾した土地は本人のものになる)

つまり、日本において人々が土地を私有できるようになったのは8世紀になってからだったということ
でも結局、土地の開拓や開墾に乗り出して潤ったのは、財力を有する寺社や貴族だけでした、というオチがつくんだ(「初期荘園」←10世紀以降、これが武士の土地となる)
第40代天武天皇は「基本は神道。仏教は天皇や国家を一つにするために必要なもの」というスタンスでしたが、聖武天皇は仏教にもうちょい深めの関心を抱いていました。
その延長で、749年に娘(孝謙天皇/6人目の女帝)に譲位し、天皇なのにひたすら仏道に励みまして、756年に崩御。
56歳でした。
~その後の流れ~
①聖武天皇が亡くなる
②聖武天皇の妻である光明子が甥の藤原仲麻呂を重用
③仲麻呂、天皇が出した「大宝律令」の藤原氏版である「養老律令」を施行し、藤原氏勢力の復活を見せつける
④仲麻呂、聖武天皇の娘である孝謙天皇が退位した後、自分の意のままに動く淳仁天皇(天武天皇の孫)を即位させ、自分は太政大臣になり権力をふるう(その際、恵美押勝/えみのおしかつ、という名をもらう)
⑤退位した孝謙上皇(女帝)が「優れた仏教者・菩薩であれば、身分を越えて国王になれる」とか言い出して、道鏡という僧を皇位につけようとする(=仲麻呂の権力を削り始める)(孝謙上皇は病気の際に自分を看病してくれた道鏡を寵愛していた)
⑥仲麻呂、764年、道鏡の排除を訴えて挙兵し自滅→仲麻呂の共犯者として淳仁天皇が淡路に流される
⑦孝謙天皇/上皇が第48代称徳天皇にビルドアップ。道鏡が太政大臣禅師→法王となり、彼女のもとで仏教政治を展開→自ら皇位に就こうと画策する
⑧769年、道鏡、和気清麻呂(わけのきよまろ)により野望を阻止され、放逐される
(和気清麻呂 → 正直者の勇者。上記の際に称徳天皇の怒りを買い、「別部穢麻呂/わけべのきたなまろ」と改名されて左遷させられる)
⑨かくて天皇の血筋は守られた

おもろ
おしまい。
