最澄と空海は、
- 仏教の度重なる介入が政治の混乱を招いたと考えた桓武天皇(第50代天皇/781~806年)が、平安京への遷都の際、平城京にあった大寺院の移転を認めなかった
- 仏教は「天皇が国家や社会の安泰を祈りたいときに必要に応じてお祈りをしてもらう」程度の役割になっていた
そんな時代のさなかの人。
そんなわけだから、最澄・空海による「平安の新しい仏教」は比較的受け入れられやすく、その新仏教の影響を強く受けた美術や建築、彫刻が数多く創造されました。
「天台宗」「真言宗」の創始者
そもそもが、「財力を誇示する道具と化した学問中心の南都仏教」に疑問を抱き、修行によって仏教の真理に到達しようとした真面目な僧たちであり、804年、同じ遣唐使団として共に唐に渡った仲でした。
当時の僧侶ときたら、経典の勉強だけでなく書道や仏像作りや寺院の建築(土木技術)なども基礎知識扱いしていたので、まあエリート中のエリートですよ。
その中でも、空海が学んだ「密教」はそこにさらに病気治療や悪霊退散などの加持祈祷が加わるので、先に日本に戻っていた最澄も「なにそれすごい、ちょっと教えてよ」となります。
とはいえ最澄にもプライドがあるので、どちら共が「自分の宗派こそ真の仏教!」と譲らず、仲違いしてしまいました。

密教って何?
→秘密の呪文を唱え、お祈りすることで現世利益(長寿祈願、病快癒、無病息災など)を追求しようという仏教
後世人の目から見た「すごい点」をそれぞれ挙げると、
- 最澄→後に「浄土宗を開いた法然」「浄土真宗を開いた親鸞」「法華宗を開いた日蓮」が学びに行き、「織田信長にしぶとく抵抗した」比叡山延暦寺を築いたところ
- 空海→書家として名高く、日本各地で温泉を掘った(杖で地面を突いたら温泉が出た)という不思議な伝説を持つところ
ですかね。
| 最澄(767~822年)※空海より7歳年上 | 空海(774~835年)※最澄より7歳年下 |
| 朝廷が唐に派遣 | 無名の留学生 |
| 19歳で僧となり、比叡在位で修業を積む | 24歳で儒教・道教・仏教についての本を著し、「今の俗世の教え、おかしいよな…」と疑問を呈する |
| 804年(37歳)、空海と共に入唐 | 804年(30歳)、最澄と共に入唐 |
| 長安には一度も立ち寄らず、天台宗の本家である天台山に籠り、翌年帰国 | 長安の青龍寺に足掛け3年滞在し、本格的な密教を持ち帰る(本来は20年かかるところを2年でコンプリートした) |
| 805年「天台宗」をひらく(比叡山延暦寺) | 816年「日本真言宗」をひらく(高野山金剛峰寺) |
| 「命あるものは皆等しく仏になれる」と説き、「身分や家柄によって仏になれるかどうかが決まる」と考える奈良の僧たちと対立 | 生きながら仏になり得るという教え、即身成仏を説く。また、828年「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を設立し、庶民にも勉学の機会を与える |
| 822年(55歳)、入滅 | 835年、入滅(即身仏になったとも言われる)。死後に弘法大使の号を贈られた |

即身仏って?
→飢餓や病に苦しむ人々の救済を願い、厳しい修行を経て、自らの肉体をミイラ化させて仏となった僧侶のこと。
①木の実や草の根、山菜の実を食べて体の脂肪や水分を減らす
②地下3メートルくらいの石室や木棺に座禅の姿勢で入り、断食や読経を続ける
③一定期間の後に乗り起こし、乾燥や微調整を経て、信仰の対象として寺院に祀られる
今やると死体遺棄や自殺幇助になるよ!やめよう!
それぞれこんな人
最澄あれこれ
- 大津市坂本の生源寺の生まれ
- 彼を神聖視する人たちによって、後漢皇帝の子孫とか登万貴王の末裔とか母は藤原家の血筋とか応神天皇9世の孫とか子に恵まれなかった両親が比叡山の神宮で祈請したら最澄が生まれたとか色々な尾ひれがついている
- 幼名は広野(ひろの)。7歳の頃に仏道を志す
- 13歳で近江国分寺にて最澄と名付けられ、19歳の7月中旬に比叡山に籠もる
- 桓武天皇に「唐に留学生を送ってはどう?」と必要性を訴えたら「君が行っておいで」と言われ、山ほどの入唐費用をもらう(遣唐大使が200両、副使が150両だった時代に金銀数百両を与えられた)
- 37歳、804年7月6日、出港。最澄が乗船した第2船は9月1日に明州鄮県に到着。そこでしばらく休養し、9月15日に天台山へ出発、9月26日に台州に到着し、色々学ぶ
- 805年6月5日、対馬に帰着→直ちに上京
- 806年、年分度者(国家が正式に定めた僧。これまでは三論宗と法相宗のみだった)に天台法華宗を含む5宗を加えてほしいと上奏する→OKされた
空海あれこれ
- 香川県仲多度郡多度津町の生まれ
- 俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)
- 14歳で平城京に上り、18歳頃、長岡京の大学寮に入り明経道を専攻する
- 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論『聾瞽指帰』を著し「今の俗世の教え、おかしくね?」と疑問を呈する
- 30歳、804年、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦で遣唐使の長期留学僧となる
- 西明寺に到着、滞在し、色々学ぶ
- 806年、博多津に帰着。空海は20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したため、朝廷は809年まで入京を許可しなかった→空海の入京には最澄の尽力や支援があったという
- その後2人は10年程交流関係を持つが、徐々に対立するようになり、色々あって(借覧要請の拒絶、弟子に鞍替えされた、など)816年初頭頃に訣別する
- 816年、43歳で朝廷より高野山を賜る
- 828年、55歳で私立の教育施設「綜芸種智院」を開設する(当時の教育は貴族や郡司の子弟などしか受けられなかったが、綜芸種智院は庶民も通えた)
- 教海→如空→空海と法名がクラスチェンジしていく。享年62歳。諡号は弘法大師
- 弘法大師が発見したとされる温泉が日本各地に存在する
- 能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている

弘法…?
・聞いたことある!「弘法も筆の誤り」
「たとえ大人物であっても誰にでも間違いはあるもの」という意味。
「應」の一番上の点を書き忘れ、掲げられた額を降ろさず筆を投げつけて書き直した(ワイルド)、という逸話があり、「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う!」というほめ言葉の意味も含まれている(褒めんな)
・これも聞いたことある!「弘法筆を選ばず」
①字がうまい人は筆の良し悪しを問わない
②いや、良い道具の方がいいだろ→「弘法筆を選ぶ」となることも
どっちやねん
最澄と空海の関係
- 最澄が学んだ密教は空海が学んだものと比べて劣っている事を、どうやら最澄本人も気付いてたっぽい
- ゆえに最澄は809年から816年頃まで、空海の下に送った弟子に借用した経典を写させていた
- 812年、最澄が空海から灌頂(頭頂に水を灌ぐこと。仏の位に達したことを証明する密教の儀式)を受け、空海の弟子となる(!)
- 空海は「大法儀軌(高度で大規模な儀式に関する経典や文献)を受ける為には3年間は留まりなさい」と最澄に言ったが、既に一宗の責任者となっていた最澄には無理な話だった→この件について、最澄は空海に宛てた書簡で詫びの言葉を繰り返している
- 逆に、最澄の「貸して」に空海が「理趣は論じて心から心へ伝えるもので、未入壇の者には真言を伝えない」と断ったことが二人の仲を悪くさせたという説も
- 最澄の優秀な弟子である泰範が比叡山から降りて空海の元に身を寄せたことも大きいと言われている。最澄は泰範に戻って来いと書簡を送ったが、その返信は空海の代筆によるもので、「真言の教えが天台よりも優れる」と記されていたそうな

予想外にドロドロしてるね…
おしまい。
