鑑真は688?~763年。中国は揚州生まれの中国人。
唐代の僧人で、日本における律宗の開祖です。
733年、大和朝廷が「僧に戒律を授けることができる高僧を日本に招きたい」として遣唐使を派遣→742年にコンタクト。
幾度もの渡来失敗の後、失明しながらも754年に到着し、聖武上皇、光明皇太后などに戒律を授けてくれました。
763年、日本で死去。享年76。
| 45代・聖武天皇/724~749年 文武天皇の子。24歳でようやく即位。唐の文化を取り入れた文化が発展し、優れた美術品が生まれた時代。天然痘の猛威に心を痛めて15メートルの東大寺仏像を造立するが、財政事情悪化、農民の負担増で餓死者を出すなど、社会情勢を悪化させた |
| 46代・孝謙天皇/749~758年 7回目・6人目の女帝。聖武天皇の娘で、初の女性皇太子となる。実権は母の光明皇太后と従兄の藤原仲麻呂が主導。この時代に中国から鑑真が招かれる |
| 47代・淳仁天皇/758~764年 天武天皇の子の子(孫) |
| 48代・称徳天皇/764~770年 8回目・6人目の女帝。孝謙天皇が重祚。道鏡という僧を寵愛し、政局を混乱させた |
戒律を授けましょう
- 仏教では、新たに僧尼となる者は戒律を遵守することを誓う(戒律のうち、自分で自分に誓うものを「戒」、集団の規則を「律」という)
- 日本では自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んだったが、奈良時代に入るとそれすら蔑ろにする者たちが増えたため、聖武天皇主導のもと、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒を制度化しようという声が強まる
- 日本から唐に渡った僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、742年、戒律の僧として高名だった鑑真(揚州の大明寺の住職)のもとを訪れる
「授戒できる僧を10人貸してください!」 - 栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者などいやしない
- 鑑真自ら渡日することを決意→それを聞いた弟子21人も随行することに。
しかしその後、日本への渡海は5回にわたり失敗した
渡海 ~その失敗の軌跡~
- 743年夏、鑑真の渡海を嫌った鑑真の弟子が、港の役人に「日本僧は実は海賊だ」と偽を密告。日本僧が追放される
鑑真「えっどうしよ…」 - 744年冬、周到な準備の上で出航したが、激しい暴風により元の位置に追い戻される
鑑真「噓でしょ…」 - 再度出航を試みるも、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され失敗
鑑真「なんで後になって反対するの…」 - 栄叡が病死を装って出獄に成功、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、福州から出発する計画を立て、福州へ向かう。しかしこの時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴え、出航を差し止めされた
鑑真「いい加減にして…」
ネバーギブアップ!
- 748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れて懇願し、鑑真が5回目の渡日を決意する
- 6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着
- そこに1年滞留し、やることがないので海南島に数々の医薬の知識を伝える(現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている)
- 751年、揚州に戻るため海南島を離れた途上、端州の地で栄叡が死去する
- 動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に説得されて思いとどまる。
鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう

がん…ばれ…(; ・`д・´)
- 753年、遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとを訪ねる(まだ中国にいる…)。
鑑真は渡日を約束したが、明州当局や清河は「許しません」と不許可の構え - 遣唐副使の大伴古麻呂が清河に内密に鑑真を乗船させ、753年1月16日、四船で出航→11月21日に沖縄本島に到着(!!)
- 沖縄に約半月滞在し、12月6日に出港。色々あったが翌日に屋久島に到着し、ようやく鑑真の渡日が叶う
- 朝廷や大宰府の受け入れ態勢が整うのを待ちつつ、12月18日に屋久島から出港。
翌19日に遭難するも、20日に薩摩国に漂着し、その後12月26日に大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着 - 奈良朝廷への到着は754年2月4日となった

お疲れさまでした!!!
その到着後
- 平城京に到着し、聖武上皇たちの歓待を受ける。
孝謙天皇の勅により「戒壇の設立」と「授戒」について全面的に一任され、東大寺に住むことに - 東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授ける
- 以後、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていく
- 763年、唐招提寺で死去。享年76
- 死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像を造り、今も唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)(これが日本最古の肖像彫刻とされている)

戒律の伝承もありがたいけど、日本に「天台宗」を伝えた点が彼の真の功績だという人もいるね。
建築や彫刻、医学の知識や薬草の知識も本当に重宝したし、悲田院を作り貧民救済に積極的に取り組んでくれたのも神だったよ。
おしまい。
