源氏と平氏は、皇族が「源(みなもと)」または「平(たいら)」の姓を与えられて臣下に降った「臣籍降下」。
つまり、両家とも天皇家にルーツをもつ由緒正しい家系です。
もっとも古い「最初の平氏」は、第50代桓武天皇の皇子を祖とする「桓武平氏」で、姓を与えられたのは825年。
もっとも古い「最初の源姓」は、第52代嵯峨天皇の皇子女を祖とする「嵯峨源氏」で、姓を与えられたのは814年のことでした。
「賜姓皇族」のうち、軍事専門職についた人たちを「軍事貴族」といい、平清盛や源頼朝たちがまさにそれ。
源氏は東国に、平氏は西国に権力を築き、二大派閥となりました。

源氏は全部で21の系統(21流)があり、代表的な四大源氏として
「清和源氏(56代清和天皇の血筋)」「嵯峨源氏(52代)」「村上源氏(62代)」「宇多源氏(59代)」が各天皇の皇子から生まれたよ。
特に「清和源氏」の血筋からは「河内源氏」「摂津源氏」「大和源氏」などの有名な源氏が生まれたよね。
平氏は「桓武平氏(50代)」「仁明平氏(54代)」「文徳平氏(55代)」「光孝平氏(58代)」の四流派が有名だけど、源氏にやられてしまったので、栄えたのは桓武平氏(平清盛の家系)くらいなんだ。
| 50代・桓武天皇/781~806年 光仁天皇の第1皇子。この天皇の子孫から後の桓武平氏(平家)が生まれる |
| 51代・平城天皇/806~809年 桓武天皇の第1皇子 |
| 52代・嵯峨天皇/809~823年 桓武天皇の子で平城天皇の弟 |
| 53代・淳和天皇/823~833年 桓武天皇の子(平城天皇・嵯峨天皇とは腹違い) |
| 54代・仁明天皇/833~850年 嵯峨天皇の子 |
| 55代・文徳天皇/850~858年 仁明天皇の子 |
| 56代・清和天皇/858~876年 文徳天皇の子。この天皇の子孫から後の清和源氏(源家)がうまれる |

平安時代は藤原氏のような貴族に代わり、力(権力と武力)を持つ武士が台頭してきた時代なんだよ。
| 源氏(源家) | 平氏(平家) |
| 清和天皇の血筋を引く「清和源氏」が中心 | 桓武天皇の血筋を引く「桓武平氏」が中心 |
| 関東(東国)が拠点 | 西日本(伊勢・畿内)に勢力を持つ |
| 地方の武士団(坂東武者)としての気風が強い | 貴族化し、公家武士として海運や貿易で財をなした |
| 平氏を下し、鎌倉幕府を開く | はじめは優勢だったが、壇ノ浦の戦いで滅亡した |

平氏(平清盛の家系)はどうやって生まれたの?
939年、同時期に起きた「平将門の乱」と「藤原純友の乱」、総称して「承平・天慶の乱」がキモでした。
↓平将門の乱
- 939年、常陸国の豪族である藤原玄明が、「私の逮捕状が出た。助けてほしい」と平将門を頼る
(平将門 → 889年、第50代桓武天皇の子供の子供の子供である高望王が平氏の姓を授けられる→その子供が平良将→そのまた子供が平将門) - 将門は国司から彼の引き渡しを迫られるが、それを無視。逆に玄明の常陸国を攻め、約3倍の軍勢に勝利して、国司の証である「印綬(いんじゅ)」を取り上げ、それが象徴的に「朝廷から常陸国を奪い取る」形となる
- 朝廷にケンカを売った将門は、そのまま下野と上野と攻め落として東国を支配下に置き、さらに自らを「親王(しんのう/新しい天皇)」と名乗る
- 朝廷がブチ切れ、「将門を倒した者を貴族にしてやろう」と喧伝する
- 一番に立ち上がったのが、将門の従兄弟にあたる平貞盛と、後に俵藤太と呼ばれるようになる藤原秀郷(ひでさと)
- 戦が起こった時期が悪く、将門が苦戦 → 940年3月25日、敵の放った鏑矢が命中し、将門が息を引き取る
- この時に将門を破った平貞盛の四男・維衡(これひら)が「伊勢平氏の祖」となり、平清盛に繋がっていく
源氏(源頼朝の家系)はどうやって生まれたの?
武力と知略でのし上がっていったカンジ。
- 清和天皇の皇子から4人、孫から12人が「源」の姓を賜り臣籍降下する
- 孫の一人、源経基(源頼光の祖父)が、941年の藤原純友の乱(平将門とほぼ同時期に起きた瀬戸内海での乱)で小野好古と共に鎮圧にあたる。彼自身はあまり活躍できなかったそうだが、この彼が「清和源氏」の祖となる
- ↑の息子、源満仲(源頼光の父)が「安和の変(969年。当時の左大臣・源高明を失脚させ、藤原家の政治的優位を作り出した事件)」のきっかけをつくり、藤原北家の摂関政治確立に協力。摂関家の侍となり、共に上っていく
- 摂津国に武士団を形成。「摂津源氏(多田源氏)」となり、摂関家(藤原家)に仕えて勢力を拡大。
長男の源頼光は、藤原兼家(おじいちゃん)、藤原道長(おとうさん)、藤原頼通(こども)三代に仕える侍となり、三男の源頼信(源頼朝の先祖!)は、藤原道兼、藤原道長らに仕え、「平忠常の乱」では非常に恐れられた

平忠常の乱
1028年、将門を母方の祖父にもつ平忠常(ただつね)が起こした反乱。
①朝廷、平直方に追討令を出す→失敗
②忠常、モンゴル軍みたいに敵地を燃やしながら爆進。焦土戦と戦いの長期化で東国が悲惨な状況に
③朝廷、源頼信に追討令を出す→平忠常が戦わずして降伏(怖いので)
これがきっかけで清和源氏が東国へ進出し、「東は源氏」「西は平氏」の構図となったよ。
お兄さんの頼光はお父さんの跡を継いで摂津国多田の「摂津源氏(多田源氏)」となったけど、弟である頼信は河内国を本拠地とする「河内源氏(かわちげんじ)」の祖となったんだ。
源頼朝はその河内源氏の7代目なんだよ。
源氏の活躍①前九年合戦(前九年の役)
1051~1062年まで、東北の太平洋側にある「陸奥国(むつのくに)」で起きた戦争。9年と言いながら実際は12年!
- 陸奥国の土着豪族、安倍頼時(あべのよりとき)が11世紀半ば頃から租税を納めなくなる
- 朝廷が陸奥守の藤原登任(なりとう)と兵を送るが敗北
- 朝廷は頼信の子、源頼義(よりよし)を新たに陸奥守として任命
- 12年に及ぶ戦いを経て、安倍一族を処刑・捕縛し、戦いが終結
源氏の活躍②後三年合戦(後三年の役)
- 出羽国の豪族、清原武則の子供、武貞(たけさだ)が、処刑された藤原経清(つねきよ)の妻を自分の妻とする
- 彼女には清原清衡(きよはらのきよひら)という連れ子がいた
- 武貞と彼女の間に家衡(いえひら)という子供が生まれると、清衡と家衡の間に土地をめぐる内紛が起こる
- 清衡は源義家(よしいえ)に助けを求め、兵糧攻めの末、家衡らを討ち取る。この1083~1086年の戦いを「後三年合戦」という
- 戦いの後、朝廷は「私的な戦でしょ?」として源義家に恩賞を与えなかったが、義家は協力した東国の武士に自腹で恩賞を支払った→東国における源氏人気が爆発
- これによって荘園の寄進が増加し、東国武士団の棟梁としての名声が上がるなど、後の鎌倉幕府へつながる土台となった
- 一方、清原清衡は藤原清衡と名乗り、平泉を中心とする東北地方一帯に勢力を拡大。「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」として、清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の3代にわたって繁栄していく(しかし鎌倉時代に入った1189年、源頼朝によって滅ぼされる)

激突☆平氏と源氏の歴史的経緯と抗争
背景はこう!
| 75代・崇德天皇/1123年~1141年 鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽天皇/上皇の意向で5歳で即位し23歳で異母弟に譲位させられる。菅原道真、平将門と共に日本三大怨霊に数えられる |
| 76代・近衛天皇/1141年~1155年 鳥羽天皇の子。病により17歳で崩御 |
| 77代・後白河天皇/1155年~1158年 鳥羽天皇の子で崇徳天皇の同母弟。即位3年で二条天皇に譲位。以後5代、30年に渡り院政を行う。平清盛と組んで実権を握るが後に清盛のクーデターで幽閉、その後なんやかんやで衰退する。源頼朝の討伐をその弟である義経に命じるなど、権謀術数の限りを尽くした |

後白河天皇は
・天皇 1155~1158年
・上皇 1158~1169年
・法皇 1169~1192年
と、まー長い間権力を振るったよ
- 1156年、崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)の権力争いに源氏と平氏の武士が参戦(保元の乱)
→この時はまだ源氏と平氏はそれほど対立的ではなく、兄の上皇には源氏から為義(義朝の父)、平氏から忠正(清盛の叔父)がつき、弟の天皇には源氏から義朝、平氏から清盛がつくという、変則的な共闘ができる関係だった - この保元の乱によって武士の勢力(有用性)がさらに拡大。勝者となった源義朝と平清盛は、次に起こった「平治の乱/1160年」で対立関係になる
- 源義朝が平清盛に惨敗。義朝の子である頼朝が伊豆に追放され、ここから源氏と平氏の対立が激化していく
- 平清盛が太政大臣となり政治の実権を握る
- 20年の年月を経て流刑地から戻った源頼朝が関東の武士団をまとめて挙兵。
当時、全国に勢力を伸ばしていた平氏によって多くの武士が土地を奪われそうになっていたため、頼朝は関東の武士に「味方をしてくれたら土地を支配する権利を与える」と呼びかけ、それによって味方を得た。これを「御恩と奉公」の関係という - 打倒平氏を目指す頼朝のもとに、武術に長けた弟・義経(よしつね)が駆けつける
- 源平合戦(治承・寿永の乱/1180~1185年)を経た後、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏が平氏を滅ぼす
- 1192年、源頼朝が朝廷から「征夷大将軍」に任じられ(坂上田村麻呂リスペクト役職名)、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く→武家政権の確立

源平合戦の覚え方「い・や・だ」
①(い)一ノ谷の戦い(治承・寿永の乱の主要な合戦のひとつ。1184年3月)
②(や)屋島の戦い(同上。1185年3月)
③(だ)壇ノ浦の戦い(有名なアレ。1185年)
源平合戦についてはまた後日!
追記・平家と平氏を混同するべからず?
厳密に言うと、
- 平氏→すべての平姓の者を指す。関東などで土着し、土地の地名を名字とした者(千葉氏、上総氏、三浦氏、畠山氏、北条氏など)も含まれる
- 平家→平清盛一門のことを指す。つまり、でかい「平氏」の中に1つの「平家」がいる形
となるそうです。
なんで平清盛一門だけ特別に「平家」を名乗ってんのかってーと、
- 清盛は伊勢平氏の出身だが、特に名字を用いず「平氏」として朝廷に仕え、戦を勝ち抜いていった
- 1160年、清盛が正三位となって上流貴族の仲間入りを果たした時、藤原氏を「藤家(とうけ)」、菅原氏を「菅家(かんけ)」と呼ぶのと同様、清盛一門を「平家」と呼ぶようになった(平姓のまま都で権力の座に上り、平氏という氏族の頂点に立つ存在となった)
そのため、平の姓を賜った一族のうち、特に朝廷に仕えた者を「平家」と呼ぶようになった、というわけです。
おしまい。
